ここで、1992年から2003年にかけて行ったヨーギニーの研究に、一区切りつけることにした。
思えば、第1回のインド旅行で、運命的に出会ったヨーギニー女神であった。
第1章でこのことについて述べたが、章末でムンバーデービーがヨーギニーである可能性を述べたが、このことの確認はせずじまいであった。その理由は、それ以降の旅行がほとんどヨーギニー寺院のある中央インドが中心で、西インドのムンバイに行く機会がなかったからである。
もう1つは、正直に言えば、仮にムンバーデービーがヨーギニーでなければ、運命的出会いが無になってしまうと思ったからである。仮にそうでなかっても、ヨーギニーを研究することに何の差し障りもない。それでも、私は「ムンバーデービーがヨーギニーである」という思いは、大切にしたかった。
人は誰であろうと、人生の「神話」を望むのである。
昨年の夏、女房が西インドのアジャンタ・エローラ行を希望したとき、これも成り行きと、ムンバイでこのことを確認する決心をした。
仮にそうでなかっても、それはそれでよいと腹をくくった。
そこで、昨年のインド旅行の行程を、最初にグワリオールでナレーサルのヨーギニー寺院訪問。南下してチトラガルで、最後のヨーギニー寺院ラニプル・ジュハリアルに寄る。ついで、空路インド亜大陸を横断し、アジャンタ・エローラを訪ね、最終日にムンバーデービー寺院で確認する計画をたてた。
結論からいうと、ムンバーデービーはヨーギニーであり、あっけない幕切れであったが、私にとっては感動的であった。
この間の事情を述べておこう。
最初にグワリオールを訪ねたとき、前回のヨーギニーの写真が良くなかったので、考古博物館を再訪した。
2階の事務所に、博物館の研究者(後で分かったが、グプタさん)がいたので、入って色々とヨーギニーのことを話した。話題が全インドのヨーギニー寺院になったので、ムンバイのムンバーデービーのことを聞いてみた。
するとあっさりと
『ええ、ムンバーデービーもヨーギニーですよ』
という返事が帰ってきた。
なにか拍子抜けをするほど簡単な結末であった。私には非常にうれしく、ほとんど興奮状態であった。
多分、グプタさんも、この日本人はなぜこんなことにそんなにも興奮するのか、不思議であり、随分といぶかったであろう。
そこで私は、これまでのことを説明したが、私の気持ちが伝わったかどうかは疑問であった。
話をそこそこに切り上げて、帰ろうとした。すると、突然グプタさんが手を出し握手を求めたので、彼は私の気持ちが理解できたことが分かり、握手を交わしたのであった。
今、これらの場面を思い出しながら、最後の原稿をまとめている。
よく考えてみると、それはそれでまた別の問題が起こってくる。というのは、今まで第5章でヨーギニーの系譜を考えたが、ヨーギニーは64体のセットが基本である。
ムンバーデービーがヨーギニーであることは、反面、64体セットのヨーギニー以外に「単独ヨーギニー」が存在することになり、これは新たな別の問題である。
この問題は単独ヨーギニーは、64体のグループヨーギニーと別の系列か、それとも64体のグループヨーギニーと同系列であり、時代はそれ以前か以後かという問題である。このヨーギニーの位置づけ問題は、ムンバーデービーのような単独ヨーギニーが他にも存在するか調べなくてはならず、今後の課題である。
この稿の初めに書いたように、ヨーギニー崇拝は非常に複雑で、デヘージャー氏も本の中の最初に,ヨーギニーの色々な側面について書いている。私の本では、このあたりを単純化して説明したが、厳密にはこの作業が必要と考える。
さて、私の知っている限りでは、日本におけるヨーギニー研究は、ほとんど端緒についたばかりである。
インド美術の研究についても、戦前は仏教美術が中心で、戦後になってようやくインド本来のヒンドゥー教美術が研究され始めた。ヨーギニーはヒンドゥー教の中でもより秘教的であり、近年一部の大学の研究室で、その形態を取り上げたりしている。しかし、それらはほとんどが仏教系ヨーギニーである。
これに対してヒンドゥー教系ヨーギニーは、ほとんど研究されていない。
理由はその儀礼が常識を越えており、アカデミズムの範疇に入りきらないからであろう。したがって、一般の大学の研究者は、ヨーギニーを取り上げることはまずないであろう。むしろ、私のような民間の研究者に適したテーマである。しかし事情は変わりつつある。インドでデヘージャ氏の本が発刊され、しかもそれが国立博物館から発刊されたのである。この影響は大きいと考える。
不思議な縁で取り組んだテーマであるが、それでも私は、ヨーギニーは、研究されるだけの豊かさと深さを持った対象であり、インド研究の核心に迫るテーマであると確信している。
あとがきにかえて
2004年 2月19日
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