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第2章 カジュラーホ

第1節 中世ヒンドゥー教寺院の光と陰

 デリー発のカジュラーホ便のシートに座ったときには、正直ほっとした。
 朝10時にホテルをタクシーで発ったまでは、順調に進んでいたのだが、「デリーの国際空港でなく、国内線の出発ロビー」とはっきり運転手に説明したにもかかわらず、タクシーが着いた所は到着便ロビーであった。

第2章冒頭イメージ

 ロビーに入る警備員のチェックでわかったので、「出発便ロビーは次の建物」と教えてもらい、重い荷物を持って指示された方に行く。ところが行けども行けどもそれらしい建物に着かない。行く道筋で、他人に聞くと道は間違っていないのだが、だんだんと淋しい倉庫のような所に出てしまった。いくらなんでもこんな人気のない所ではないと、ここでもう一度国内線の出発ロビーと聞くと、「先の角を曲がった所」というので半信半疑で角を曲がると、はるか向こうにそれらしき建物が見えた。
 『次の建物で、5分ほどです』
という警備員の言葉とはどうしても考えられない距離と時間にあきれると同時に、インドに来たんだな、という実感がしみじみわいてきた。

 隣り合せの席は、小学校くらいの可愛らしい少女である。
 座席ベルトの付け方がわからないとみえて、まごまごしているので教えると、色々と話が始まった。聞けばカジュラーホ出身で、中学1年生である。それくらいの年頃ならと、日頃行く寺院について聞いてみた。

 家族で参詣するのはシャンカラ寺院(マタンゲシユヴァラ寺)というから、シヴァ教徒であろう。中学の担任の先生は、アメリカから来た女性の先生で優しいとか、好きな教科は数学とのこと。私が日本の中学の数学の教師と言うと、突然
 『あなたのカースト階級は、何ですか』
と、聞いたのには絶句した。
 『・・・・・・日本にはカースト制度はないんですよ』
と答えると、何か納得できない風である。

 振り向くと、すぐ後ろの席に少女の父親がいて、恐縮していた。
 この場合、私がインド人であれば、相手のカーストを聞くことは礼儀に反するから多分聞かなかったであろう。またもう1点は、彼女の認識する世界観では、ヒンドゥー教徒であろうとなかろうと、カーストは存在するという認識である。そしてその上に立って教職に就いている者=ブラーミンであるという確信。もちろん彼女もブラーミンであり、と同時に、お互いが同じ階級であるという共有意識を期待したのではないか。
 日本人がインドを旅するとき、カーストを意識することはほとんどない。「外国人」というカースト範疇はないのだが、しかし実際のところは、日本人は「日本人というカースト」と見ているのだ。この場合、13才の少女の単なる質問ではあるが、逆にそれだけ率直にカースト意識が噴出したのではないか。カースト意識は社会・経済・政治制度のみならず、日常の生活感覚まで支配している。

 他方、私がインドの現地主催のグループ旅行に参加すると、微妙な立場になる。
 ヨーロッパ系の人は、自分の理解を越えたできごとに会うと肩をすくめ、私が日本人であるにもかかわらず「理解できませんね」と同意を求める。この場合、私がそれを理解できるとき、それを理解できるという意味でアジアの立場に立つか、私はそれを理解できないという意味での非アジアの立場に立つか、問われているのだ。
 今まででもそうだが、旅に出れば、私は「日本人」で、これは当たり前のことだが、実は事情はもっと複雑である。
 相手がヨーロッパ系の人の場合、この返事は「自分を非アジア人と認識する日本人」と考えているようだ。だから、私は話の中でこのことが話題になれば、常に
 『私はアジア人ですから』ということを付け加えることにしている。私がこう答えると、決まって相手は怪訝そうな顔をする。
 しかし、私が何回か『私はアジア人ですから』と確認をすると、最後には私の意図を理解する。私が、ヨーロッパとは異なるアジア人としての価値体系を持った「日本人」と主張していることに気付くのである。

 これで初めて、私は彼と対等の立場に立つことができるのだ。そして、本当の意味で交流が始まる。
 この意味では、旅人は、自分の背に担っている普段は気付かない自分の立場を意識するのであり、それだからこそ「旅」は人を変えるのだ。

 カジュラーホのホテルに宿をとり、一休みしてから西群の寺院に下見に出かけたのは夕方であった。地道には、半分をオレンジ色に輝かせた西群寺院のシカラの影が長々と伸び、街も人も朱に染まっていた。
 西群寺院の入場料は50パイサ。うかつなことだが、このとき初めてパイサ(百分の1ルピー)という単位が生きていることを知った。旅行者では「パイサの世界」にはなかなか入れなかったのだ。
 例によって日本人と見ると色々な物売りが寄ってくる。適当に話をしながら寺院に入るとあきらめたのか、いなくなってしまった。ラクシュマナ寺院のほうに歩いて行くと、日本製のタオルを持った男に日本語で声をかけられた。

 インドで片言の日本語で話しかけられたら、まず100%観光客目当ての商人である。質問にだけ答えてやりすごし、寺院のほうに急いだ。
 ラクシュマナ寺院の入り口で写真を撮っていると、先程の男がやってきてガイドをしましょうかという。またまたガイドの押し売りと思ったが、ガイドの能力を試してみようと、
 『ラクリンの像は、この寺院ではどこにありますか』 
と尋ねると、即座に二体のラクリン像を示し、説明してくれた。

 彼が、カジュラーホの4日間色々と世話になるゴータマ君である。
 このゴータマ君というのは、公認ガイドではないが、日本語を流暢に話し、西郡の寺院辺りにいては日本人観光客に話しかけ、色々と寺院のことを説明してくれる面白い青年である。彼自身は土産物屋を経営しており、ガイドの返礼に土産物を買ってもらい生計を立てている。私など土産を買う気など全くないのだが、このことが分かってからも商売ぬきに色々と用を足してくれる。私もだんだんと付き合ううちに親しくなり、またヒンドゥー教のことも詳しいので、何かにつけ世話になった.
 しかし注意しなければならないのは、ゴータマ君のような現地の人の説明は往々にして自身の推量と憶測が入っている点である。一般的に現地の人の説明は、理解し易いのだが、同じことを別の機会に聞くと、説明が違ったりする。たとえば先のラクリンの像にしても、2度目の説明では前の説明と違っていたりする。したがって、どの説明は本人の推測であるのか、どの説明は伝承なのかを確認する必要がある。ゴータマ君の説明は、私が期待することをよく理解しているので、えてしてその期待に応えようと憶測を交えることがあった。

 ゴータマ君とはその後音信が途絶えたが、いつだったか自宅にいるとき、民放のテレビ番組でカジュラーホを取材していた。西郡の寺院辺りの場面になったので、妻に『このあたりでゴータマ君に知り合ったんだ』と言った瞬間に、テレビの画面にゴータマ君が出現したので、2人して大笑いした。
 彼は今も健在らしい。

 さて、カジュラーホの寺院のことである.
 一見して驚くのは、寺院の壁面の装飾像の圧倒的な量(マッス)であり、その「性」を中心とした表現形式である。これには私のブヴァネシュヴァルの北方形式の寺院を見慣れた眼にも驚かされた。これは寺院装飾のための像というより、装飾そのものが目的であって、礼拝の場としての寺院は後退している(図2-1)。日本の仏教美術でも“寺院を荘厳する”ということばがあるが、カジュラーホのそれは荘厳ということばを越えて“歓喜(アーナンダ)”が適切である。カジュラーホの寺院装飾の過剰さは、インド国内というより、世界でも類がないであろう。これに近いのは、南インドのヒンドゥー教寺院の楼門(ゴプラム)の壁面を埋めつくす極彩色の神話像である。チャンデラ朝の芸術家は、中央インドの寺院装飾の基準を激変させたに違いない。

図2-1 カジュラーホの寺院荘厳

図2-1 カジュラーホの寺院荘厳

 中世ヒンドゥー教を寺院を理解しようとするとき、その端緒としてカジュラーホの寺院群を考えることは適切であろう。そして、我々はこの「歓喜」と呼びうる寺院装飾、宗教とその性的表現の両立を理解するために、インド美術・建築史のみならず宗教史の側面も考慮しなければならない。
 次の問題は1章で考えた、インドの民衆にとって、どのような寺院を最も支持するか、またその理由は何かである。
 私が第1回のインド旅行でカジュラーホを訪れたとき、日本人ガイド氏に言われたのは『観光客の人は、マタンゲシュワラ寺院は遠慮してください。他の寺院は別ですが、この寺院は現在でも信仰が生きていますから』ということであった。
 カジュラーホに現存する20ほどの寺院のうち、村人が日々の敬虔な祈りを奉げるのは建築・美術的に優れるラクシュマナ寺院やカンダリヤ・マハーデーバー寺院ではなく、むしろ地味なマタンゲシュワラ寺院である。

 デヘージャー氏は、『Patoron、Goddes and Temples』の中で、王権の援助と寺院、その文化的な背景を「王室の援助」「寺院」「芸術家と工芸家」の3つの要素で考察している。
 私は寺院に対する民衆の支持の視点から、これらに加えて「庶民の人気」考えたい。話の進め方として、古代建築史におけるサーンチーの仏塔、中世史におけるタンジョールのヴリハデシュヴァラ寺院とプリーのジャガンナート寺院、続いてカジュラーホの西群の寺院の順に考えよう。最後にこれとは別に、カジュラーホのヨーギニー寺院についても触れたい。

 インドの歴史を通じて、巨大な寺院や記念碑を建立しつづけてきたのは、基本的には経済的な裏づけをもった王侯貴族たちであった。その目的は、ヒンドゥー教徒、仏教徒、ジャイナ教徒であろうと程度の差はあれ、以下の3つの理由に分けることができる。
 (1)寺院を建立することによって、宗教上の功績(プンヤ)を得る。
 (2)寺院援助によって、死後、再度の誕生の際に、より良い条件を確実にする。
 以上は宗教上の目的であるが、時代が下るにつれて寺院建設の目的が劇的に変化し、政治的社会的な目的をもつようになる。
 (3)寺院建立に対する自負心、また政治的文化的な意味において優位に立つこと。
 しかしながら、この理由は一般的なもので、古代においてはこれらの理由が完全に当てはまるものではない。ここではそれぞれの時代の寺院や記念碑において、これらの理由がどのように作用しているかを考察しよう。

 最初の例は、カジュラーホの南西に位置するポーパル近くの前2世紀のサーンチーの仏塔(ストゥーパ)である。(図2-2)
 ストゥーパはパーリー語でトゥーパ、今日日本語に音写されて「塔」ということばになる。元来は仏舎利を納める建物である。円筒形の土台の上に、半球形の覆鉢(直径36m高さ17m)が乗り、これは煉瓦造りでその上を玉砂利で覆った。ストゥーパの頂上にはさらに正方形の石造りの囲いがあり、そのまん中に傘蓋(チャットラ)が立つ。覆鉢の周囲には参拝者が右繞(右回り)できるよう回廊(プラダクシナー)が設けられ、信者たちはこの回廊の周りを回りながら礼拝した。
 円筒形の土台を囲んで石造の玉垣(欄楯)がある。その形から考えて、頂上の囲いとこの欄楯はもともと木造であった。この時代から石造に変わるのだが、それまでと異なって未曽有の規模で用いられた。

図2-2 サーンチーの仏塔

図2-2 サーンチーの仏塔

 仏塔は、近隣の住人の「小さな寄贈」によって建設され、王室や貴族たちの援助ではなかった。630ほどの石碑があるが、それらは仏僧や比丘尼、参拝者やその夫人であり、多くの貿易商人、銀行家、測量士、石工などが寄贈したものである。これらは、いわゆる庶民といえる商業階層の組合(ギルド)が寄贈した石碑であり、それぞれは敷石や門柱、手すりや笠石に個別の寄贈者名を彫った。
 このような商業組合の発達は、すでにブッダの時代から始まるが、マウルヤ朝による国内政治の安定と、海外貿易の発展による富の蓄積の結果であった。
 経済的繁栄によって、商業組合は剰余金を蓄積することができた。これにより、古代における宗教的記念碑に対する援助は、商業組合が中心であり、王侯貴族などの特権階級ではなかった。したがって、宗教的記念碑に対する援助は、純粋に宗教的な動機であるということを忘れてはならない。建設の主体が庶民階層のギルドであるという例は、サーンチーの仏塔だけでなくごく一般的であり、西インドのカールリーやバジャーの石窟寺院も同様である。

 中世の寺院では、王室の援助は、しばしば建設した最も素晴らしい寺院に国王の名前を命名した。
 西暦1003年タンジョールにある偉大な寺院ヴリハデシュヴァラ寺院は、チョーラー朝の大王ラージャラージャ・チョーラが、ラージャラージャシュヴァラ寺院と名づけた。すでに王の軍事力と政治力は強大であったが、その上に後世に残る名声も望んだ。ラージャラージャ王は、チョーラー王国を強化し、その力を海外にまで拡大した最盛期、その首都に南インドでは未だ考えられない5倍の寺院(高さ60m以上)を建設した。彼は自分たちの世代に対して、個人的な栄光の証人として寺院を選んだ。(図2-3)

 彼は、多分当時中央インドにあったチャンデラ朝やカラチュリ朝の諸王を意識したに違いない。このように中世になると、寺院建立の動機は宗教的なものを含みながら、次第に政治的社会的な理由に変化することが一般化する。

 南インドを1週間バス旅行した際、この寺院を訪れる機会があった。
 印象に残っているのは、この寺院の巨大さである。中庭の芝生の端に寄って、35ミリカメラのファインダーに、本殿全体が入らない。
 もう一点驚いたことは、南インド随一を誇るこの寺院の参拝者の少なさである。
 なぜ、このような巨大な寺院に人々は参拝しないのだろうか。

 強い日差しに、広い芝生の緑色だけが輝いて、寺院壁面にある牙をむきだしたシヴァ神像は、踊りながらあたかもラージャラージャ王を笑っているようだ。次に訪れたのがマドゥライの女神ミーナクシー寺院で、信者が溢れ対照的であった。

図2-3 ブリハデシュヴァル寺院

図2-3 ブリハデシュヴァル寺院

 このとき初めて寺院にも「人気」いわば庶民の支持・不支持があるのだと、卒然と気づいた。
 このことと関連して「王室の援助」と「寺院」の関係を見てゆこう。
 寺院はときとして、政治的声明を発表したり強調したりすることに奉仕し、国王の神王的な力を主張した。寺院を主催する司祭は王室の代弁者であり、王は寺院に対して後援者・保護者の関係である。
 ヴリハデシュヴァラ寺院の碑文によると、王は寺院に対して多額の寄付を行った。
 これらは、226キロの金塊と227キロの銀塊、収税できる幾つかの村、91の寺院から集められた400人のデーバダーシ(寺院の舞姫)、舞踏教師や楽士、ドラム奏者や仕立て人を含む212名の召し使いである。これらの財産を管理するために、4名の収入役、7名の会計役と9名の副会計役を任命した。
 寺院は店舗を構え、巡礼に対して宿舎を提供し宿料をとった。寺院は遠方から巡礼者を集め、王はその寺院の経営を助けるために、巡礼に税金を課した。

 中世インドでは、これらの寺院はかってないほど巨大になり、強力な後援者である王族貴族は、その装飾的趣味を満足させることができた。その結果、寺院に宗教的に厳格な気風が薄れ、他方、芸術からみれば生命の感覚的表現が率直に表されるようになった。寺院は、国王や家臣達が土地を寄贈するという美徳(プンヤ)によって裕福な公共施設となる。中世の寺院はもはや純粋な宗教的な施設ではなく、司祭や楽士や舞姫、花輪作り、床屋等が居住し、そこに勤めある種の社会的文化的な施設となるが、このことを「寺院の世俗化」と呼ぼう。
 このように王室が全面的に後援する寺院を、小倉泰氏は「帝国の寺院」と呼ぶ。
 王室の寺院発願の意図が一変して宗教的な側面が薄くなり、王権の支配体制としての寺院になれば、庶民からみれば、「帝国の寺院」は、自分達の信仰の場としての寺院ではない。
 以上の観点から、なぜこの寺院が民衆に人気がないか理解できるであろう。

 寺院がいかに壮麗・豪華であっても、発願の理由が信仰とは縁もゆかりもなければ、王朝が滅びれば人々は見向きもしなかった。寺院は、人々にとってはあくまでも信仰の拠り所であり、寺院は建物ではないのである。
 中世の日本仏教でも、東大寺や興福寺などの官寺や氏寺では同様の世俗化の事実を見ることができる。しかし、事情は全く同じではなかった。このような王権と寺院との共存は、反面寺院の側にも大きな変化をもたらした。寺院本来の宗教的な性格が影を潜め、その目的が王室の権威を示す記念碑としての施設になり、信仰、礼拝、供養を軽視する。
 寺院はときの王権と結びつくとき、「世俗化」という陥穽が潜んでいた。
 日本の場合、平安仏教のように寺院を建てる場所を世俗の権威から離れた山岳にしたり、厳格な戒律の設定、女人禁制を含めての防護策を考えた。インドの場合、このような策が多少の例外を除いて意図的に採れなかった。このことの端的な例がデーバダーシの存在である。

 「デーバダーシ」の起源は、サンスクリット語で寺院における「神に奉仕する女使用人」である。18世紀の宣教師アベ・J・ドゥボイスは『ヒンドゥー教徒の風俗・習慣・儀式』に、次のように述べている。
 「主な寺院は8人から12人、それ以上の奉仕する女性を抱えている。彼女たちの正式な仕事は朝晩2度、寺院の中で歌い踊ったりすることである。―中略―
 彼女たちは儀式の合間に、時間の余裕があれば非常に恥ずべき行為を行っている。聖なる寺院が売春宿にかわることも珍しくなかった。

 「売春」は、世界でも最古の職業といえるが、寺院における売春は、決してインドだけの現象ではない。
 私がここでデーバダーシの問題を取り上げる第1の理由は、ヒンドゥー教は浄・不浄を峻別する宗教にもかかわらず、なぜ聖なる場所である寺院で、売春が公然と行われたかである。第2に、寺院の運営の中でデーバダーシの位置づけを考えることによって、逆に中世寺院の特質が明らかにできるのではないかと考えた。また、現代の我々がデーバダーシについて考えるとき、現代の倫理観や価値基準で判断しがちであるが、 これらは時代とともに変化したはずである。 したがって女性史の流れの中で、その社会的背景を考えながら判断したいと思う。
 一般的にヴェーダの時代(紀元前2000年~700年)は、女性の社会的地位は今よりずっと高かった。バラモン教の入門式(ウパナヤナ)は、現代では男子の再生族のみ行われるが、当時は女性にも行われ宗教に関する女性の地位は男子と同等であった。

 バラモン教がヒンドゥー教として成立する頃になると、ヒンドゥー教の価値観によって女性の地位は相対的に低下し、女性は先のウパナヤナには参加できず、結婚を通じて夫の従属物としての立場に甘んじなければならなかった。 「マヌの法典」は、女性がヴェーダを読んだり暗唱したりすることを禁止した。家庭では、妻にとって夫は神であり導師(グル)であり、女性は結婚して妻の立場を得ることによって社会的に認められた。使用人を前提にすれば、女性の家庭内の仕事は宗教活動に従事することは重要な役割であり、足しげく寺院に参詣した。ヒンドゥー教を下支えしたのはこれらの女性達であったが、神を信仰すればするほど、女性自身の行動が制約されるという逆説的状況が生れた。
 さて、マウルヤ朝時代(紀元前4~3世紀)の『アルタ・シャーストラ』には、ガニカーの記述がある。このガニカーは「高級売春婦」と一般的に訳されるが、これは適切ではない。というのはガニカーは、この時代、芸能に秀で機知や話術に富む女性文化人であって、現代のこの言葉の実態とはかけ離れている。例えば、6世紀の詩人ダンディルの『土の荷車』は、貧しいバラモンと裕福な女主人公ヴァイサンタセナとの求婚と結婚の物語であるが、ヴァイサンタセナはヒロイン(女主人公)として描かれた。

 また、寺院で働く舞姫や楽器の演奏家は、売春婦と同じ範疇で考えた。これは、『カーマ・スートラ』の書かれた3世紀を含め中世まで、「恋」は駆け引きの技術であり、「愛」は性的な技能の問題であった。したがってこれらの職業は「女性技能者」の範疇であり、社会的な地位は低くスードラ階級であった。 
 ここで注目しなければならないのが、これらの古代の物語等には、寺院で行われる売春の記述はなく、デーバダーシは少なくとも中世まで存在しなかった。
  サンスクリット語で「古い物語」を意味するプラーナは、ほぼ中世初期(6世紀)頃から出現するが、少女を買い寺院に奉納することを薦める記述が『ハビシャンヤ・プラーナ』に初めて見え、「スールヤローカ(太陽の世界)を得る最高の方法は、太陽の寺院に一群の女性を奉納することである」と述べている。
 中世の売春には2種類あって、それぞれ「世俗的売春」と「聖なる売春」であった。寺院で行われるデーバダーシの売春は「聖なる売春」であり、一般の街で行われる売春とは区別した。

 アラン・エドワーズの『蓮の中の宝石』にこのような「聖なる売春」に関する記述がある。
 「神殿の売淫に、自分の娘を奉げたり売ったりすることは、信心深い、非常に尊い行為であり、それどころか神聖な犠牲の行為であると考えられた。このような行為は神聖であり、聖職者達から吉とされるばかりでなく、神々の特別の恩寵が必ず得られる行為であると考えられた」
 娘を子供のうちに寺院に奉納する背景には、土地を持たなかった当時の農民(リヨット)達が、地主層のバラモン階級から徹底的に収奪される現実があった。デーバダーシは街の街娼よりも実入りが多く、裕福な旦那も付いたので、生活が破綻した最下層の親は子供の寺院奉納を望んだ。他方バラモン階級は、寺院奉納によるデーバダーシの売春は「聖なる売春」と称して正当化し、ダーシ自身には女神に奉仕しているという安堵感を与えた。
 また、神を盲信する貧しい女達は、神に多産を願って、最初に生まれた女子の寺院奉納を司祭に約束した。このように当時の支配カーストであったバラモン僧は、自己の欲望と利益のために、経済的宗教的にデーバダーシ制度を利用した。 この結果、「花折りの権利」(初夜権)は、その寺院のバラモンたちの特権であり、その後を支配カーストが引き継いだ。

 このようなデーバダーシ制度の出現は、「女性技能者」の社会的地位が低かったことが背景にあるが、直接的には中世ヒンドゥー教寺院の宗教性の変質であるが、その根底には2つの大きな理由があったと考えている。1つは前の章で述べた「帝国の寺院」に関わる寺院と権力との結びつきである。
 先のラージャラージャ・チョーラーは、タンジャヴァルの寺院にデーバダーシを400人を集めたとあり、碑文は続けて「彼女たちは寺院のまわりに定住し、奉仕の見返り分として26700㎡の土地の収穫物や米が見積もられていた」とある。
 王室の土地寄進によって、寺院は自らの経営体としての性格を自覚しはじめ、寺院運営の中心が宗教的主導者から権力機関としての権威に移行してゆくとき、利益と権力の追求が公然と表面化した。
 もう1点はタントリズム隆盛の影響である。
 タントリズムの目的は、以前に述べたように解脱だけでなく、ある種の超能力を得ることであった。このためにシャクティ(性力)と一体化するための一つの方法として特殊な儀礼、シンボリズムやマントラの助けを借りながらシャクティとみなす女性と性交するという安易道としての側面があるが、このことは寺院における「聖なる売春」に簡単に結びついた。時代的に見ればタントリズムの勃興(7世紀)とデーバダーシ制度の広がりはほぼ重なるが、地域格差を残しながら両者が相互作用を持ちながら広がったと考える。タントリズムは、シヴァ派・ヴィシュヌ派を中心に仏教寺院にも金剛乗(ヴァジュラヤーナ)として取り込まれてゆくのだが、デーバダーシ制度もこれらの寺院でも同様に行われた。
 これらの寺院の変質は、表面的に見れば「宗教的堕落」と見る見解もあるが、我々の目的は中世の信仰の有様を客観的に記述することであって、宗教的に純粋であったかどうかを判断することではない。
 しかしながら、当時の人々にも当然ながらこのような寺院の変質に対する自覚があったことは事実である。新しい宗教運動、即ち寺院によらない、個人が直接神と向き合う信仰形態・信愛(バクティー)運動へとつながってゆくのである。
 さて、次に「帝国の寺院」とは対極にあるプリーのジャガンナート寺院について考えてみよう。

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