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第4章 カトマンドゥ / 血と供犠のシンボリズム

第2節 ヴァジュラ・ヨーギニー寺院

 旅の初めに、ネパール第2の街ポカラを訪れたのは、ヒマラヤの山々を見たいという妻のたっての希望であった。
 ホテルの話では、秋から冬にかけてポカラ近郊のサランコットの丘から、ほぼ毎日見えるという。今はモンスーンの季節であり、見える確率は非常に低いとのこと。実際、当日は小雨の悪条件でサランコットの丘に登ったが、運転手さんに
 『晴れていれば、北の方向にアンナプルナやマチャプチャレが見えるはずですが、残念です』という悲しい結末に終わった。
 天候の変った旅の終わりに、何としてもヒマラヤの山々を見ようと、ポカラとは反対カトマンドゥの東へ道をとり、サクー、ヴァジュラ・ヨーギニー寺院、展望台のあるナガルコットという行程の旅を計画した。私がこの寺院を途中に入れたのは、もちろんヨーギニーの名に惹かれたからである。
 この日も、クリシュナさんに車をお願いし、ホテルを8時に出発した。
 車で進む途中の雑踏の街角に、フロント係の小柄な女性が立っている。
 挨拶をするのでこちらも挨拶を返すと、驚いたことに突然私達の車に乗ってきた。 実はこの女性、クリシュナさんの妹コピルさんで、私達がヴァジュラ・ヨーギニー寺院に行くことを知って、待ち合わせていたのである。コピルさんはフロント係として、兄のクリシュナさんはホテル付きの運転手として働いている。なお「コピル」という名の意味は、「花の蕾」である。
 クリシュナさんは、今日はガイド役に徹しているのかゆっくりとカトマンドゥの由来、神話を話しだした。

 太古の昔、カトゥマンドゥ盆地は、一面巨大な湖が広がっていた。現在のスワヤンブナートのある高台が、唯一の島として湖の中にあった。この島に巨大な蓮華の花が開き、そこに原初仏スワヤンブー(自在神)が生れた。
 中国の山西省五台山にあった文殊菩薩(マンジュシュリー)は、風のうわさにこのことを耳にし、敬意を表するために空を翔けてネパールまでやって来た。島が狭かったので、文殊菩薩はその剣をふるって湖を囲んでいた一角、チョッバールの山塊を切り開いた。すると湖の水は外に流れ去り、農耕に適した肥沃な盆地が出現した。文殊菩薩は、かっての島に仏塔を建立し、スワヤンブーの出現を称えた。これがカトマンドゥの町の由来である。

 前日見たパタンを過ぎ、静かな農村のを風景を眺めながら最初にカトマンドゥの東にある町サクーまで行く。
 モンスーンの季節は雨の日が多く、空模様も曇りがちである。
 道路は完全に舗装されているが、所々土砂の流れが道を寸断し、車は速度を落とさねばならない。
 カトマンドゥ盆地はほとんどが稲作だから、日本の田園風景とよく似ている。この時期8月は、青々とした稲の合間から草取りをする家族があちこちに見え、一様に日本の蓑とは異なる亀の甲のような円形蓑を着ける。
 サクーからは山間部に入り、ヴァジュラ・ヨーギニー寺院を直接目指す。
 ヴァジュラ・ヨーギニー寺院は、丘の中腹にあって車では寺院下までしか行けず、十分ほど急な石段を登らねばならない。

 私達が上っていると、目の前をネワール民族服の3人の女性が牛乳の大きな缶を持って軽々と登ってゆく。額に紐をかけ缶を背中に吊し、この辺り独特の持ち方である。寺院の僧に、一日の牛乳を届けているのだ。

 私達が寺院に着いたとき、すでに4、5人の参拝者がいた。
 参拝者が少ないにもかかわらず、警護の人が参拝者の人品を確かめていたのは、この寺院がよほど厳格な寺院であるとの印象を持った。聞けばカトマンドゥにある4つのヨーギニー寺院は、信者以外はその境内にはいることすらできない。私達が仏教徒ということで無事見学できたが、それでも寺院の扉が開いている間は撮影は禁止であった。
 入り口の扉の中で、祭司(プジャリー)が礼拝の執りなしをしているが、信者さえも内陣へは入れない。クリシュナさんもコピラさんも、ヴァジュラ・ヨーギニー女神には礼拝を行ったが、私達も外から参拝をする。
 扉から射す光では、内陣の中は暗い。
 目をこらすと中央に祭壇があって、神像が3体ほの白く浮かんでいる。(図4-3)

 首あたりまで重厚な錦の衣服を着た中央の女神が、ヴァジュラ・ヨーギニー女神である。女神の前の床には、半月形の黄銅の首飾りが幾つも置いてある。
 今思い出すのは、闇夜の蛍のように青く輝く、首飾りに付いたトルコ石の輝きである。
 信者がお布施をすると、司祭が恭しく前に並べた首飾りをヨーギニー女神の首に掛ける。その信者が退散すると、司祭は首飾りを元の床の上に戻す。
 一連の所作の意味は、以下の様な趣旨らしい。
 ヴァジュラ・ヨーギニー女神は、その女性としての性格上、装飾品としての首飾りをこよなく好む。信者がお布施を寄進すれば、司祭が首飾りを掛け、女神はそれを歓び、信者に報いるという趣向である。即ち「礼拝者の寄進」と「女神の恩寵」の交換という図式である。
 インドでも古い寺院で見る供養の図式である。この供養の図式は、神に自分の心を祭司の仲介を通さず直接奉げる中世のバクティーの考え方とは明らかに異なっている。このような考え方は、歴史的に見ればいつの時代にまで遡るのであろうか。インド宗教史に即して考えてみれば、少なくとも中世のバクティー信仰以前であり、かつ古代バラモン教の祭祀主義以降と考える。

 ここで少しカトマンドゥにおけるヨーギニー信仰について述べておかなければならない。というのは、今まで述べてきたヒンドゥー教系ヨーギニーと、仏教系ヨーギニーはその性格が随分と異なっている。元を辿ればヴァジュラ・ヨーギニー女神は、ヒンドゥー教系ヨーギニーに行き着く。

 ヒンドゥー教がネパールに移入されたパドマ・サンババの頃は、ヒンドゥータントリズムの中でもヨーギニーは相当な位置を占めていたので、当然ヨーギニーもカトマンドゥにも導入された。この女神が、ヴァジュラ・ヨーギニーやヴィジャシュヴェリ・デービーの2つの呼称をを持つのはこのためである。
 カトマンドゥでは、ヨーギニーはダーキニーともカンドウマ(空を翔ける女)とも呼ばれ、ヒンドゥー教でも仏教(密教)でも偉大な力を持つ女神として崇拝した。

 現在、仏教系ヨーギニーは、カトマンドゥ盆地を囲んで4つの寺院に祠るが、その1つがサクーのヴァジュラ・ヨーギニー寺院であり、シャンクにはカドガ・ヨーギニー寺院があると聞く。4つのヨーギニーの姿は、それぞれの形態が異なり、頭蓋骨盃で血を飲むヨーギニーや、裸体で片足を上げた姿、空を飛翔する姿のものもある。共通するのは、全身が赤いという点や、50の人間の生首を付けた花飾りを着ける点である。

 右の図は、全裸で片足を上げたヴァジュラ・ヨーギニーである。(図4-4)
 このヨーギニーも、サクーのヴァジュラ・ヨーギニーと同名であるが、16才で若々しく活気に満ちた姿で描かれた。
 この女神は、普通の目以外に額に第3の目を持ち、過去と現在と未来を同時に見ることができる。
 女神の肩あたりにはカトヴァング(先端に髑髏の付いた杖)を持つが、これは女神の配偶者ヘールカ(チャクラ・サンヴァラ)を表わすから、確かに密教系の女神である。ヴァジュラ・ヨーギニーの名の由来は、もちろん右手のヴァジュラであるが、左手には血を満たした髑髏盃をかかげ、今まさにそれを飲み干そうとしている。
 仏教系タントリズムでは「血」は、「悟りを開く知恵」を意味するが、この点ヒンドゥータントリズムと異なっている。

図4-4 ヴァジュラ・ヨーギニー像

図4-4 ヴァジュラ・ヨーギニー像

図4-3 ヴァジュラ・ヨーギニー寺院平面図

図4-3 ヴァジュラ・ヨーギニー寺院平面図

 仏教タントリズムでは、持物とその象徴的意味が正確に対応している。これはインドから導入されたとき象徴的な意味が理論的に確立されていたからであろう。例えば、女神の右手に皮をはぐ曲刀(カルトリ)を持ち、その他端は武具であるヴァジュラである。この法具の象徴としての意味は、知恵を統一する対象を持たない意識を、無明から切り離すことを曲刀(カルトリ)で表わし、それが「純粋精神」即ち「空」であり、それを形態としてヴァジュラとして表わした。
 ヴァジュラの形は、その先端が3つないし5つに爪状に別れて1つの空間を形作り、中央の矢がその空間を指し示す。これが仏教でいう「空」を形態として表現する。
 また、この女神は完全に裸体で表現されるが、これは女神が感覚や知覚、概念的思考から完全に超越するマハームドラー(偉大なる至福)の成就を意味する。
 この女神の身体が赤いのは、興奮状態であり、乳首もぴんと立っている。これは、崇拝者が自己の欲望を偉大な至福に変えようとする努力を、女神が助けようとする強い情熱の為である。したがって、ヴァジュラ・ヨーギニー女神の位置づけは、一般の信者より修行者のための尊像と考える。

 私達も礼拝後、寺院の周辺を回った。
 寺院の扉があいている間は、写真はだめということで入口周辺の撮影だけをする。
石段下には、台座のリンガ・ヨーニの上に蓮華座に乗った仏像の塔が立っており、ヒンドゥー教と仏教の混淆の形と見た。これは一昨日訪れたスワヤンブ・ナートでも同様に仏教寺院であるにもかかわらず、寺院の四隅にヒンドゥー教建築に特有のシカラがあった。これも、ヒンドゥー建築と仏教建築の構造的混合である。

 この仏塔の背後には、箱状の石棺があって中にはかなり摩滅した蛇(ナーガ)の石像が入っていた。この石像は相当古く多くの人の手に触れて滑らかである。仏塔が置かれる以前の石像と見た。
 寺院のそばには、一般の巡礼が泊まる1棟の木造家屋がある。
 この建物の下側に、寺院の陰になるようにして別の石小屋があった。その緑一面に苔むした様子から、随分と古いものである。(図4-5)

 クリシュナさんの話しでは、カトゥマンドゥにも歴然とカースト制があって、被差別の巡礼は一般の人が参拝するあいだ寺院に近寄れなかった。この小さな石小屋で待機し、誰もいないときを見はからって参拝を許されたという。

図4-5 石の宿泊所

図4-5 石の宿泊所

 カトマンドゥのカースト制は、一般に「ジャート」という36のグループに分かれる。このジャートも2つの範疇を持ち、1つは地域や出身部族のジャートであり、ネパールの北東部のシェルパや、ポカラにはグルン族、カトマンドゥ盆地に古くから居住するネワールなどがある。もう1つは、インドのカースト制に近い職能的身分的なジャートで、これらにはバラモン階級にあたるグルン、クシャトリアに対応するチェトリなどがあるが、インドほど厳格なものではない。
 ぽっかりと黒い口を開いた入り口は、扉も付いていない。部屋は真っ暗で30センチほどの窓が片面の壁だけに穿たれていた。現在この2つの巡礼用の建物は使われてないが、カトゥマンドゥ盆地の物言わぬ社会状況を示している。
 帰る間際になって参拝の人々が全くいなくなり、寺院の扉も閉まったので寺院全体の写真を撮ることができた。(図4-6)

図4-6 ヴァジュラ・ヨーギニー寺院

図4-6 ヴァジュラ・ヨーギニー寺院

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