第6章 グワリオール再訪
第2節 ナレーサルへ、荒れ野のヨーギニー寺院
午前のプラウリー、ミタウリー寺院の見学のあと、近くのレストランで遅い昼食をとる。食事が終わって、一昨年行けなかったナレーサルのヨーギニー寺院に出発した。
道すがら運転手君は、街道の村人にナレーサルまでの道を尋ねている。どうもその様子では、訪れるのは初めてのようだ。
私は、一抹の不安を感じた。
後で分かったことだが、何とガイド氏もナレーサルのヨーギニー寺院を訪れるのは初めてであった。グワリオール観光のコースは、ほとんどが市内観光で私達の行くような郊外へは誰も行かないようだ
しかし、翻って考えてみればグワリオールでは、ナレーサルのヨーギニー寺院はホテル・タンセンの人も知っている程だから、そんなに珍しい寺院ではないはずである。ホテルの人も寺院の名前は知っているが、ガイド氏といえども行ったことがないのは、何か特別な事情があるのか。
これも後日少しずつ分かったことだが、グワリオールの町の人達はプラウリーやバッティシュヴァル寺院のある地域の「森の人達」を「警戒の目」で見ているようだ。もっとも、どの程度気にしているかは分からないが、出来れば近づきたくはないと言う程度か。ナレーサルについても、事情は同じようである。
ここからは、神戸に帰ってからの話である。
実は、このナレーサル寺院はかつてのインドの盗賊(ダコイット)の居住地であった。デヘージャー氏の記述にも
「また、ヨーギニー遺跡のあるナレーサルでは絶えず子供の誘拐が散発したが、ヨーギニー寺院はこれらを行ったダコイット達の安全な隠れ家としてしばしば利用されていた」とある。
もっとも、ダコイットにも2種類あって、血も涙もないダコイットもおれば、圧政者と戦う義賊的なダコイットもいるようだ。昨年、ニューデリーで暗殺されたダコイットの女頭領であるプーラン・デービー後者と聞いた。
私たちが訪ねた2003年頃には、大部分のチャンバル渓谷のダコイット達は政府に投降したようだ。したがって、この辺は一応は安全ということになるのだが、それでも土地の人達は警戒の目で見ているのが現状である。
車は、新しい工業道路を10分ほど滑るように走った。
工業道路を右折してからは地道に変わり、5分ほどトラクターのわだちの残った悪路をあえぎあえぎ進むと、突然車は止った。
私達は、村の入り口に着いたが、この村がナレーサルのようだ。ここからはヨーギニー寺院まで道路がないとのこと、ここからは徒歩で進まなくてはならない。
ガイド氏は、近くにいた村の若者に寺院までの道を聞いていた。話では、はるか遠くの岩盤の岩山を越えて3キロ程行くと、小さな谷に沿って寺院があるとのこと。
このあたりいわゆるブンデルカンドの景観は、荒れ果てた岩山の世界である。
見渡すかぎりの平原に、1キロ、2キロもある砂岩の岩盤台地が半ば埋もれたように点在する。あたかも巨大な隕石が、そのまま半ば地面に突き刺さったようだ。モンスーンの季節には、岩と砂だけの荒地も植物が茂り、この不毛の台地にも緑のレースが縁どられる。寺院はこの一つの岩山の上にあるようだ。
私達は、必需品の飲料水と荷物を持って車を降り、これからの徒歩行に備えて靴ひもを結びなおし出発した。
小麦畑の畦道を歩いて、岩山の上の目印にした大樹をひたすら目指す。
ほとんど道なき道であり、これは想像していた以上に大変な旅である。
当日は曇天で、畦道も乾いていたから歩けたが、雨天であれば多分進むことは諦めねばならなかったろう。雨の多いこのモンスーンの季節だから、私達は幸運な訪れだった。
20分ほどで小麦畑を横切り、岩盤台地の基部に着く。
砂岩の堆積層の岩肌には、微かに小径が続いており、これに沿って登った。
岩山の上は荒涼とした台地で、丈の短いよもぎ草が白い地面に延々と続き、その間を風が渡ってゆく。曇天ではあったが、雲を通して射す光は熱く汗がとめどなく流れ、ハンカチで何度も拭かなくては目が開けられない。途中に小さな祠があって、赤い女神が祠られているのを横目に、ひたすら歩んだ。
20分ほどで小さな谷に出た。
突然、ラジャスタン風の縦縞のターバンをした山羊飼いの痩せた老人に出会った。
ガイド氏はどういう訳か知らぬ振りをするので、私は挨拶をして尋ねると、無言で指で示した。
谷を降りると、そこは淀んだ古池になっているが人工の貯水池のようである。寺院はその向こうにあって、岩山の上からは見えない。
池のそばの幾つかの壊れた小神殿には、それぞれリンガが祠られていた。そこを越えると小さな滝があり、下るとちょうど主神殿の背面に出た。寺院の前庭まで降りると、窪地の底にあるのせいか風も落ちて、あたりは全ての音が神殿の戸口に吸い込まれたような不思議な無音の世界である。
ナレーサルの「ヨーギニー寺院」は、今までのヨーギニー寺院とは全く異なっている。これは表現しようがないが、敢えて言えば見捨てられた廃墟の寺院である。(図6-8)
寺院の境内に降りて気づいたことだが、この寺院はまた何か途方もない自然の破壊力・地震を受けたようだ。内陣と思われる床に葺かれた石板は、谷の端で一部が地面から跳ね上がり、明らかに境内の横方向から強い圧力がかかり、敷石が弾き出された。
このあたり一帯に、巨大な地震があったのは確かであるが、その時期は分からない。この推定に立つと、ほぼ一直線に東から並んだ4寺院、プラウリー寺院、バッティシュヴァル寺院、ミタウリー寺院、ナレーサル寺院はほぼ同じ力を受けたはずである。しかし寺院の形態と、それぞれの寺院の地盤の様子によって被害も様々であった。ナレーサル寺院が、ミタウリーの寺院のように、一枚の岩盤に乗っておればこのような一部の圧力を受けるはずがないのだが、この寺院は谷に溜った土砂の上に築かれたため、このような1方向からの力がかかったのだ。
図6-8 ナレーサル寺院
マッディヤプラデシュ州政府は、州全体で400もの破壊された寺院を抱えているそうだが、ほとんどが修理に手が回らないのが現状である。
午前中訪れたプラウリー寺院はまがりなりにも修復されたが、バッティシュヴァル寺院は被害がひどく放棄された。
小さな谷と貯水池を挟んで、主神殿と壊れた幾つかの小神殿が配置されているが、破壊が激しいため、この配置を確認するのは非常に難しい。
このヨーギニー寺院構造は、ミタウリーなどの円形構造ではなくむしろカジュラーホなどの主神殿と幾つかの小神殿群からできている古いタイプである。カジュラーホのそれと異なるのは、小神殿を長方形に配置するのではなく谷に沿ってランダムに配置する点である。1つの小神殿には1人の女神を祠ってあり、全体として20ほどの小神殿で構成する。
複雑な地形であるので、寺院設計も難しいプランだったと思うが、なぜこの様な谷間の地形に寺院を造営しなければならなかったか。(図6-9)
図6-9 寺院(ナレーサル)平面図
考えられる第1の理由は、ミタウリーの寺院と同様に岩盤の頂上部にあるという意味での秘密性の保持である。ただそれにしては余りにも辺鄙な場所過ぎる。通常ヨーギニー寺院は、ヒラプルの寺院の所でも述べたが利便性と秘密性と言う相反する2面性を持つ。
第2の理由は、谷川の水が血の儀礼の洗浄に利用できる点である。このナレーサルの寺院は岩盤の上にあって、しかも天水が利用できる貯水池がある点がミタウリーのそれと異なっている。
もう1点の理由は明快で、この岩山をつくっている砂岩はこの寺院を作る石材に適している点である。ミタウリーの項でも述べたが、この時代寺院建築の用材の原則は、寺院は用材が採れる場所に建設することである。建設費や、時間の節約など利点が多かったはずである。
風がないせいか汗が絶え間なく流れるので、私達は内陣でしばらく休み、水分を補給した。その後、今回はデジカメと銀塩カメラで、主神殿やヨーギニーを祠った小神殿の写真を撮った。
ほとんどの小神殿には半ば壊れかけの寺院を含めて、リンガ・ヨーニが置いてあるが、もちろんこれは後世のもので、元来は美しい64体のヨーギニー像が祠ってあるはずである。
主神殿の頂上には赤い三角旗が掲げてあったから、この寺院は今も信仰の対象である。寺院の頂上に翻る旗の色の意味は、その寺院の信仰の状態を表す。
よく見る赤旗は、供犠・供養を含めた現在信仰の対象の寺院であることを意味する。午前中訪れたバッティシュヴァル寺院はシヴァ寺院であるが、ほぼ完全に破壊されていたが白色の旗であり平和を意味し、サフラン色は瞑想の対象であるというしるしである。
ナレーサルのヨーギニー寺院の不可解な点は、ミタウリーのヨーギニー寺院との関連である。2つの寺院はほんの16キロしか離れてない。こんな近い所に2つのヨーギニー寺院が必要であったのか。
デヘージャー氏によると、ナレーサル寺院は3段階を経て建造されたという。
創建は、9世紀~10世紀で、ヨーギニーの台座の文字の年代学的考察から推測された。中期は12世紀で、ヨーギニー崇拝が盛んになるチャンデラ朝の頃に寺院の形が整えられた。最終的に今の形になったのは13世紀である。これに対してミタウリー寺院は14世紀に創建され、ヨーギニー崇拝は16世紀のムスリム侵入まで続いた。
以上から推測できることは、ナレーサル寺院はグワリオールのヨーギニー寺院として最初に造営された。何らかの理由、今では想像するしかないが、ヨーギニー崇拝が一般的になるに従ってその利便性の欠点、町から余りにも遠いために放棄された。そして様式も新たに、グワリオールにより近いミタウリー村に円形寺院として建設したのではないかと考える。
ミタウリーのヨーギニー寺院は、インドのヨーギニー寺院の中でも最も美しく、より完成された構造を持つ。このため早くから巷間に知られており、ヨーギニー像も早くから散逸してしまった。これに対してナレーサル寺院は、車も寄れない不便な場所にあることが幸いして、寺院自体は荒れてしまったが神像は残った。前世紀の初頭、神像はグワリオールの考古博物館に20体ほど収容された。これらの神像について考えて見よう。
これらのヨーギニー像の現状は、1体の神像を残してほとんどのヨーギニー像の首はない。腕もない像が幾つかあるが、その他の部分は保存状態も良く非常に美しい。首と背板の一部が同様にないのは、破壊者は意図的に最少の努力で最大の破壊を考えて、頭部を中心に切り落としたに違いない。オウム頭のヨーギニー像だけ頭部が残ったのは、元はこれも切り落とされたが、偶然頭部が残っていたので後に接合した。
ナレーサルのヨーギニー像は、一定の様式を持っている。
全般的な構成は、中央部に腰かけた女神像、下部にはその崇拝者達が女神を礼拝し、上部の背板には頭光と天翔る2組の天人達が女神を荘厳する。
ヨーギニー女神の全般の特徴は、高く張り切った乳房と滑らかな腹部。長くほっそりとした脚の線は優美である。特に細部まで刻まれた指先の爪は特徴的である。様式の完成された後期の神像で、頭部まで残っておれば、どれほどか美しい像かと惜しまれる。
どの神像も同じタイプの首飾りを乳房の上に垂らし、ガードル、腕飾り、ブレスレット、アンクレットを付ける。
ナレーサルの神像には他のヨーギニー寺院の神像にはない特徴があり、それは各神像の台座にに通し番号がふられている点であるが、このことについては後で触れることにしよう。
それぞれの神像について述べてみよう。
第12番のヨーギニーは、オウム頭のヨーギニーで、ウマー・デービーである。猪顔の赤子をひざの上に抱え、女神の乗り物も猪のようである。特に赤子を持つ繊細な指に注目。ヨーギニー女神の中でも子供を抱えている神像は珍しく、多分子供を願う祈願者の女神と考えられる。(図6-10)
図6-10 ウマー・デービー
第14番のヨーギニーは、シュリー・デービー・ニヴァウである。左手に切断された人間の首を持つ。デヘージャー氏によると、このニヴァウの名はサンスクリット語起源ではないから、この地方の女神がヨーギニーとしてとりあげられたのではないかと述べている。(図6-11)
第15番のヨーギニーは、シュリー・デービー・ヴァイシュナービーである。
ヴァイシュナービーはもちろんヴィシュヌ神の妻で、したがってマートリカー(母神)の1人である。
デヘージャー氏によると、ヨーギニーにもマートリカーをその中に含むグループA、マートリカーを含まないグループBに分けられるが、ナレーサルのヨーギニーはグループAに含まれる。このヨーギニーは、左手にほら貝(コンチ)を持ち、中央にヴィシュヌ神の乗り物である聖鳥ガルーダに乗っている。(図6-12)
最後に、ナレーサル系の工房で作られたと考えられる美しいヨーギニーを見てもらおう。
この作品は、ナレーサルから600キロメートル離れたカナウジの個人像のものから複製したものである。これは煉瓦造りの家の中に祠られていた。その様式から、この神像はナレーサル像と同じ工房で作られたと考える。特に指先の爪の様子などは全く同じである。(図C-6)
図6-11 デービー・ニヴァウ
図6-12 ヨーギニー・ヴァイシュナービー
図C-6 指をくわえたヨーギニー
このヨーギニーは、左手に楯、右手に剣を持っている。左右の眉はつながり長めの大きな目が印象的である。もっとも大きな特徴は、両手の人差し指を口に入れている点である。この女神は、アッタタハーサ(高らかに嘲笑をするもの)か、シヴァラヴァ(ジャッカルの声を持つもの)と考えている。ナレーサル形の工房で作られた最も戦慄すべき美しさを持つヨーギニー像と私は考えている。
私はこれまでにナレーサルのヨーギニー寺院は残っており、人工の貯水池あたりの小神殿がそれであると述べてきた。
しかし、デヘージャー氏はそう考えていない。デヘージャー氏の記述はこのようになっている。
「今日、20以上のシヴァ寺院が残るが、元来はもっと多くの寺院が残っていた。不幸にも、ヨーギニー寺院の基礎は残っていない。
一つの可能性として、貯水池を見下ろす頂上部にヨーギニー寺院はあったのではないかと想像できる。我々は、普通に考えれば、ヨーギニー寺院は丘の1番高い所に孤立して存在したと考える。」
確かに現在の小神殿にはシヴァ・リンガが祠ってあるからシヴァ寺院の観であるが、私はこれを今世紀初頭にヨーギニー像を収集するときに入れられたものと考えている。これらの小神殿が、ヨーギニー寺院と考える可能性には3つの理由がある。
1.仮に貯水池の周辺にかつてヨーギニー寺院があったとすれば、考古博物館のヨーギニー像の大きさから考えて、また神像が殆ど風化してない現状から考えればこの寺院はミタウリー寺院の小部屋形式であろうから、この未知の寺院の規模は直径30~40mほどになるであろう。このような跡地が見逃されるはずがない。
ところがである、貯水池のある丘の頂上部にはその様な円形の跡地は全くなく、自然石のむき出しのままである。仮に、その基礎ごと剥ぎ取って多分何かに利用したとしても、かなり広い跡地がが残るはずである。実際、私達が見た所その様な跡地はなく、自然石のままであった。私は、可能性としてはこれが最も妥当と考える。
2.デヘージャ氏が述べているが、ナレーサルのヨーギニー像の他の寺院の神像にない特徴として、台座に通し番号が刻まれている点である。この理由については、何も述べていない。
台座に、通し番号を打つ意味は何であろうか。
私はこれは、現在小神殿形式で貯水池の付近に寺院が散在するから、通し番号を刻むことがどうしても必要であったと考えるのである。逆に、壁龕形式でも小部屋形式でもヨーギニー像が連続して並んでいれば、番号を刻む意味はないと考える。したがって、台座の番号の存在は、現在シヴァ寺院と呼ばれる寺院が元はヨーギニー寺院である傍証である。
3.3番目の理由は非常に簡単である。ナレーサル寺院について、これまでのことを整理すると、
今世紀の初頭に、ナレーサルから20体のヨーギニー像が回収された。
現存する小神殿の「シヴァ寺院」は、20以上残っている。
この同じ20のヨーギニー像と20以上の小神殿の数の一致は、単なる偶然であろうか。私にはどうもその様には考えられない。したがって元来あった20以上の小神殿形式のヨーギニー寺院から、20のヨーギニー神像が回収され、その後にシヴァ・リンガを祠ったという方が余程自然ではないかと考える。
実際、昨年ミタウリーのヨーギニー寺院を訪れたとき、中央神殿にはシヴァ神像はなく、その後に2つのリンガが残っていたが、これも後世入れられたものである。
このことは、考古博物館の記録に残っている可能性がある。ただ、考古博物館の創立が1913年であるからほぼ同じ頃であるので、残っている確信はない。
ガイド氏の話では、実はナレーサルのヨーギニー寺院に案内するのは初めてであるとのこと。ミタウリーや、プラウリー寺院でもほとんどないということであった。
このガイド氏、ホテル・タンセンが推薦してくれた人だが、寺院などの知識だけでなく、ガイドの職業としての見識、私達のの安全面や疲れの様子まで色々と配慮してくれた。
午前中訪れたプラウリー寺院では、地下の倉庫を見るために階段を降りたときに、野生のコブラが出現したのだが、見学よりもまず私達の安全のことを優先して行動してくれた。これは当たり前と言えば当たり前かもしれないが、インドでは中々この様な人には巡り合えないのである。えてして私達が意図する所よりも一方的な説明であったり、そして最後は途方もない料金を請求する。
帰途は、そのままの道を逆に帰ったのであるが、ここでもガイド氏は道を完全に理解して全く同じ道を帰ることができたのは、流石であった。
今回のことを通じて、私達インドを旅する者にとって良いガイドにめぐり遇えることは、実りある旅行には必須条件であることが痛感された旅であった。