第2章 カジュラーホ
第2節 丸い目のジャガンナート神
プリーのジャガンナート信仰は、熱狂的であることは以前にも述べた。その信仰の熱烈な様は、6月~7月にかけて行われる最大の祭礼ラタヤートラの日に表れる。かっては熱狂した信者達が、この日街中を引き回す山車(だし)の前に飛び込んだという。これが英単語に取り入れられ、ジャガナイト(自殺する)になった。
その「人気」、あえて人気というが、その理由は3つの点にあると考える。
(1)古代の部族神としてのジャガンナート
ジャガンナート神の由来は非常に古く、その起源は原始的な部族神にさかのぼる。
オリッサの部族神としての性格を、その形態において今日でもよく保っている。
サンスクリット語でサソリは「カルジュラ」(kharjura)であり、カジュラーホの古代地名は「カルジュラヴァハカ」(Kharjuravahaka)である。この言葉は二重の意味をもち、“栄冠を得る”と“サソリの痛みに耐える”である。他方、このカルジュラヴァハカはシヴァ神の別称であり、“サソリの花冠を付ける者”を意味している。したがって『美女の脚に這うサソリ』はカジュラーホの象徴であり、表音としての洒落であり、意味として“栄光あるシヴァ神の都”である。
サソリは、インドの農村ではごく普通に見られる動物である。
後日、西群の寺院の前を通りかかった際、蛇使いに出会った。その日はちょうど「ナーガパンチャミー」の日で、素焼きの壷にコブラ(眼鏡蛇)と、竹で編んだ大きな笊の中に青黒い光沢のサソリ5、6匹いた。
今思い出せば、サソリは、カジュラーホにとって特別な意味があったのだ。
ジャガンナート神は、ヒンドゥーパンテオンの神と異なり、随分と変わっている。腕や胴などは、枝付の丸太をそのまま利用したと見え稚拙さを残すが、特徴的な点はその目で、壷の底を下から覗いたように丸く大きい。
ジャガンナート神の別称であるチャカドラ神は、「丸い目を持つもの」の意である。ヴィシュヌの第1番目の化身マツヤ(魚)は、「丸い瞬きのない目の神」であり、マドーライのミーナクシ女神(魚の目をした神)と同様、象徴的に「活発で用心深い状態の神」を意味する。このジャガンナート神の、大きな丸い目の象徴的な意味を考えてみよう。(図2-4)
ジャガンナート神の最古の伝承に『ニーラマドハブの伝説』がある。
図2-4 ジャガンナート神(右端)
「ジャガンナート神は、元来ニーラマドハブ神としてシャバラ族(原住民の種族で、族長はヴィシュワヴァツ)が秘密裏に崇拝する部族神であった。この神の偉大さを耳にしたインドラドュームナ王は、神の鎮座する洞窟を探そうとバラモン僧ウィデヤーパティを送った。
族長ヴィシュワヴァツは、深い森の洞窟で神を礼拝するのが常であった。
ウィデヤーパティは、最善を尽くしたが、その秘密の洞窟を見つけることはできなかった。しかし彼はとうとう、ヴィシュワヴァツの娘ロリターに近づくことに成功する。
彼女の幾度もの懇願を受け入れ、ヴィシュワヴァツは、彼をニーラマドハブを祠った洞窟に目隠しをすることを条件に連れて行くことを約束した。賢明なウィデヤーパティは、一計を案じ、洞窟に行くまでの道すじに、そっと辛子(カラシ)の種を落としておいた。数日にしてこれらの種は発芽して、洞窟までの道筋を示した。
彼からの連絡でインドラドュームナ王は、ただちにオリッサのオドラ・デーシャを送って、洞窟の発見を命じた。
事前に察知したヴィシュワヴァツは、神を砂の中に隠した。
王は神が突然隠されたことに、失望しなければならなかった。
失望した王ではあったが、ニーラの丘に赴き、決然と神を直接見つけるまでは帰らないと誓った。そして、ニーラの丘で、決死の断食を行うが、夢に『汝の神を発見できるであろう』という天の声に断食を中止した。
その後、王は偉大な馬祀祭を催し、ヴィシュヌ神のために最高の寺院を建立し、ナーラダ仙がもたらしたナラシンハ神を祠った。
その夜、王は夢にジャガンナート神のお姿を拝した。神は、海岸の香木を切り、新に神像を作ることを命じた。王はヴィシュヌ、バララーマ、サブハドラ、スダルシャナの神像を作り、そして寺院に祠った」(トゥリパティ『ジャガンナート寺院』)
この伝説の構造的な意味するところを考えてみよう。
インドラドュームナ王は、ウィデヤーパティ(知識の主の意)を送ったが、隠す-探す-隠すという円環の中で、結局「知識ウィデヤー」では用心深い神を見つけることができなかった。神を念じ決死の断食を行い、寺院を建てることによって、神の恩寵を得たのである。そして夢の啓示によって、海岸の香木(自然界)に内在する神を発見できたのである。すなわち神は、偏狭な隠された実在ではなく、自然界に遍く存在する。それを発見できるかどうかは、神を求める王の姿勢の問題であった。
そして今述べた総てが、ジャガンナート神の目が丸いことの象徴的意味である。
この様に形態的に「部族神」としての性格を残しているのがジャガンナート神である。他方、バラモン僧たちは、元来の部族神としての信仰集団にも、伝統的に一定の地位と役割を与えた。
このように目の丸いことの象徴を通じて、ジャガンナート信仰の基層に、部族神としての性格を温存し、神格に豊かさと伝統を与えた。
(2)脱カーストの神としてのジャガンナート
ジャガンナート信仰が、民衆に支持を得る最大の理由は、すべてのカースト階級がこの寺院では平等である点にある。信者は、カーストによって差別されない(脱カースト)。神殿に額ずき神に対面するとき、ヒンドゥー教徒の17%を占め差別され続けた被差別の階級の人々(指定カースト)にとって、これは当然のことであろう。
この信仰の脱カーストの性格は、ニーラマドハブ神がヴィシュヌ派のタントラ系のプルショッタマ神を経て、ジャガンナート神に変化する過程でに取り入れた。このことは、アッサム、ベンガル地方におけるタントリズムが、オリッサに普及したことと重なる。
元来、タントリズムでは、人間存在の根本は、プルシャ(男性原理)とプラクリティー(女性原理)の結合として規定する。
『ジャガンナートの詩』に曰わく。
“幾百年もの歳月が過ぎていった。
しかし、神は神秘ベールに包まれたままであった。
その神の名は、ジャガンナート、「宇宙の王」である。
御名の別称はプルショッタマ、「究極のプルシャ」である。”
ジャガンナート神が、タントラ系の要素を取り入れた証拠は、上の『ジャガンナートの詩』に「プルショッタマ」と呼ばれることで明らかである。もう1つの理由としてこの寺院がプリーのニーラの丘(ニーラギリ)にあって、このニーラギリの地名はアッサムのカーマキヤ寺院の地名と同じである。
この様にして、先に述べた部族伸の基層にタントラ神の性格が付加された。
中世以降になると、正統バラモン教はヒンドゥー教に変化するが、ジャガンナート信仰もこれに対応してヒンドゥー教の三位一体(トリムールティー)を取り入れた。シャンカラ上人の指導のもと、ジャガンナート神はヴィシュヌ、バラブハドラ神はシヴァ、サブハドラ神はブヴネシュヴァリー(シャークタ派の女神)として寺院に祠られた。
そして、このことによってジャガンナート神に、ヒンドゥーパンテオンにおけるの三位一体の神としての側面が付加され、全インドにおける普遍的な神格として位置付けられた。
(3)公開された寺院経営
以下のジャガンナート寺院の収入-支出一覧表は、寺院受け付けで買った案内冊子の末尾に付いていたものである。
ジャガンナート寺院の経営の支出と収入
収入項目
1.土地からの収入
籾(米)の販売、ココヤシ園、採石場からの収入、年賦金など
2.その他の収入
個人住宅の賃貸収入 店舗家賃 本、写真の販売 特定の寄付 利子収入
3.寺院からの収入
特定の人からの入場料 大理石の皿販売
4.運送料
5.補助金
寺院管理や祭典の政府補助金 宿舎基金からの交付金
6.供託金
支出項目
1.寺院経営のための支出
経営委員会委員長の給与 現職の経営委員会の委員給与
2.寺院職員給与
給与 謝礼(寸志) 従業員の旅行手当 輸送従業員の諸手当
3.僧侶に対する報酬と手当
日々の僧侶に対する報酬と特別な現金支給 僧侶の手当
僧侶の診療所経費
4.臨時の費用
5.寺院の建設と修理費
6.宗教行事と祭礼の費用
7.雑費
8.職員と僧侶の交通費
9.積立金
1989年~1990年の財政年度における収入と支出
これを見るかぎり、ジャガンナート寺院の経営は非常に民主的であり、その全てではないが、寺院経営は公開の性格を持っている。
今までに色々と寺院の案内冊子を見たことがあるが、このように経理面まで公開する寺院は珍しい。
この冊子を見ると支出の項目から、寺院経営は、最高の意思決定機関である経営委員会があり、その下に2つの部門、寺院経営の事務部と宗教を扱う僧侶部がある。
寺院の経営と、宗派の運営を分け、そのバランスを委員会とその長の合議制にゆだねている所にジャガンナート寺院の強さがある。
収入項目を見ると、最初の項目に土地収入があるから、ジャガンナート寺院はかなりの水田とココヤシ園、採石場など土地資産を持っていることがわかる。
収入の第2の項目が、個人住宅の賃貸収入、店舗家賃と続くから、土地以外にも建物や店舗を所有し、そこからの収入もある。全体として安定した収入(90年度で1700万ルピー)を確保している。
また、割合としては少ないが、政府からの補助金が出ていることは、それだけ州政府から信頼されている証拠であろう。
したがって、寺院経営が安定していることは、寺院の経営が寺院そのものの責任で決定できることを意味する。また、伝統的に公開の原則は寺院の体質であり、経営が純粋に宗教的な信仰とか研究に専念できるという点である。
「帝国の寺院」のように、寺院は信仰とは関係がない国王のための出先機関になる必要もなく、結果的に、寺院経営が「腐敗」することもなかった。一定の宗教的権威として存続できたことが、人々の信頼を得、熱狂的な信仰が続く理由になった。
さて、ここで「王室の援助」と「寺院」「芸術家」の関係に話を進めよう。
図2-5 三要素の作用図1.2.3
図2-5のように、一般モデルとして三角形の各頂点にそれぞれを配置すれば、それぞれの頂点から伸びる作用(ベクトル)は(作用図1)のようになる。
たとえばサーンチーの仏塔の場合を考えてみよう。
象牙彫刻家のウッディーシャは仏塔の南門の、石のトーラナの浮き彫りを刻んだことを名誉なことと記している。しかしこのように彫刻家が作品に自分の名前を刻むようなことは、インドでは非常に稀である。したがってサーンチーの場合は、芸術家から組合(ギルド)や寺院への作用力の強さを線の長さとして表すならば、芸術家からの作用線が短い右図の三角形になる。(作用図2)
これはまだサーンチーの時代には、技能が芸術として社会的に認めておらず、芸術家は非常に弱い立場にあった。この時代、古代インドの石造彫刻技術は、マウルヤ朝のアショーカ王の石柱や、デーガルダンジュのヤクシニー像のように非常に高い水準にあったことは事実である。しかし、古代インドでは「石工」という職業はあっても、石造彫刻家、芸術家というカテゴリーはまだ存在しなかった。したがって、石工は社会の最も低位の序列に属し、カースト階級ではスードラであった。
他の理由、芸術家がその神像を刻むとき、彼はあくまでも神の御手によって導かれ、石工は、彼自身はその御心によって実行しただけと信じられた。 この意味では石工の内面においては、神像を刻むことは「絶対者・神」に合一する一つの方法である。神の面前において自己は無化され、そのことが自己の根拠となる。したがって彼自身は非人格化されることが当然であり、彼の個性を放棄するのである。このように社会的な地位の低さと、内面的な宗教の「桎梏」のために、芸術家は自己を主張することはなかった。
時代が下って中世チョーラー朝の時代はどうであろうか。
ラージャ・ラージャと彼の王妃と貴族たちは、66体の銅像と幾つかの黄金神像を寄進したが、それらには制作者の銘はなかった。このことから判断して、この強力な大王のもとでは、芸術家が芸術家として認められる雰囲気は希薄であり、その個性も認められることはなかった。したがって三角形の形は、サーンチーの場合とは異なる。(作用図3)
しかしながら、「帝国の寺院」の厳格な宗教施設としての枠組みが弱まり、社会的文化的な施設としての側面が強まるとともに、内面的な自己規制も弱まった。
これと並行して「石工」から「石造彫刻家」としての自己意識の変革は、技術・技能の個性化によって少しずつ進んだ。
寺院の白大理石の石板を1日に10枚磨いても、彼の技能はその生産量で量られ、石工はその範疇を越えられなかった。
反対に、石工が寺院の壁面に飾る赤色砂岩のヴァイラブ像を1ヶ月かかっても彼しかできない神像を刻むことができれば、彼は「石造彫刻家」として認められた。
ハーレビードにあるホイサラシュヴァル寺院の碑文では、後援者ナラシンハ1世を誉めたたえ彫刻家の統領カーリーダシーの名をあげて「ライバル彫刻家の丘に落ちた雷」と評している。またその他のホイサラ朝の寺院で見られる彫刻家の名前は明らかであった。
プリーのジャガンナート寺院の祭ラタ・ヤートラの山車を作る大工の親方は、代々ある特定の家系の者に限られていた。この場合はその家系のなかで、父からその息子へとその技術が相伝された。このことから判断すれば、12世紀頃までには技術の独自性が認められたと考えてもよい。
このように「芸術」と「宗教」の分離の時代には、技能の発達に伴って芸術家は、自発的に意識して自分の個性を放棄する気持ちは弱まった。結果的には芸術家が自分の作品に署名可能か否かは、技能が芸術まで高められ、彼の個性が価値として認められ、銘を入れることによってその作品の価値が増加する場合である。
もう一点は、仮にそうだとしても最終的に援助の主体である国王の個性あったと考えられるが、この点についてはチャンデラ朝の項で述べよう。
中央インドのカジュラーホは、空から眺めると緑の草原に寺院が点在する小さな村である。しかし、この小さな村は、観光地としてアグラやベナレスに次ぐ位置にあるが、それはひとえに村にある25ほどの寺院の存在である。
このチャンデラ朝の寺院群を考えるとき、偉大なダンガデーバー王を抜きに考えることはできないであろう。(図2-6)
彼の治世は、950年~1002年の52年間であるが、チャンデラ朝(900~1150年)は、代々これらの壮麗な寺院群を街の西部に建立してきたが、現在はこれを西群の寺院と呼んでいる。
チャンデラ朝は、もともとウインデア山脈の地域にジュジャーカブクティーという小王国を建設した。この国王は、カナウジのプラテハラー朝のの封建領主であったが、9世紀の中頃から国力を強化し始めた。しかし、ダンガ王の祖父ハルシャや彼の父ヤソーヴァルマン王は共に、プラテハラー朝の宗主権を認めていた。
図2-6 ダンガ王
ダンガ王の代になって、公然とプラテハラー朝に決戦を挑み、「カランジャラ砦の征服者」という称号を手にする。この呼び名は、北インドの全てのラージプト王の欲しがる称号である。
彼はまたグワリオール要塞も攻略し、領土は東はベナレス北はナルマダー河の南側まで広がった。
彼の名前「ダンガ」という意味は、「黒い蜂」の地方名で、その名の通り強力な針でカナウジのプラティハーラ朝の宗主権を否定し、独立したチャンデラ朝の最初の王となった。現在寺院に残る碑文には、「王権の土台は、彼の時代に固まった」とあり、続いて彼の人柄について述べている。
「ダンガ王は、気前がよく、勇敢で、芸術に関しても眼識があり、ふざけることも好きである」と。
彼を称える碑文であるから、客観的ではないであろう。最初に「気前がよく」は、国王として一番期待されることだから当然として、最後に「ふざけることも好きである」というのは、ダンガ王の人柄と個性を表している。
ダンガ王は、軍事力、宗教の持つ力を含めての政治力、経済を見通す先見性等の卓越した能力を持っていた。ここではできるだけ客観的に、彼の人柄を歴史的な事実から描いてみよう。
彼の時代の商業は、当時ジャイナ教徒がその力を握っていた。
王都を富裕にするために商業や貿易を活発にする必要があり、彼はジャイナ教徒達にも協力を求めた。ジャイナ教徒パヒラは、優美なパルシュヴァナータ寺院を創建したが、この寺院の碑文によると、彼はダンガ王から尊敬されたとある。
ダンガ王は、当時の2つの宗教勢力とも強い協力関係を維持するようにつとめた。
寺院の碑文には、カウラカーパーリカ派に関する多くの記述があるが、この派は新興のタントラ教の極端なシヴァ派である。彼等は身分としてのバラモン階級を認めず、カースト制にも反対し、ベーダーも否定する。ところが、碑文によると当時のカーパーリカ派は、バラモン階級とカースト制も、ベーダーの権威すらも支持している。
この間の事情は、どのようになっていたのであろうか。
私は、ダンガ王は当時の新興勢力であったタントリスト達を認める代わりに、彼等と正統派バラモン達との融和を計り、教義上の問題を回避したのではないかと考える。
また、旧来のバラモン僧にたいしても、ダンガ王自身の体重だけの黄金を与えるという「トウラプラシャダナ」の儀式を行ない、その外にも土地や穀物や牝牛を寄贈した。彼が建立したヴィシュヴァナータ寺院の碑文には、王室付きのバラモン僧バッタヤショーダラを優遇し、月食が起きた年に彼に一つの村を寄贈したとある。
長生きをしたダンガ王であったが、ヴィシュヴァナータ寺院の奉納碑文が彫られる前に亡くなった。このとき彼をマラカーテシュヴァラ(エメラルドの王)として、追悼演説をしたのは、このバッタヤショーダラである。
この碑文において
「彼は109歳まで生き、ガンジスとヤムナー河の合流がどうとかの浮き世の煩いを避け、ひたすらルドラ神を瞑想した」と述べている。また
「太陽が永遠に輝くように、カイラス山が永遠に続くように、この寺院の存続を願った」とある。
ルドラ神を崇拝したダンガデーバー王を記念して、巨大なリンガを祠ったシヴァ寺院がシヴァサーガル湖の近くに建設された。この寺院が、現在のマタンゲシュヴァラ寺院である。
この寺院は、亡くなった死者を悼む葬祭寺院の性格を持っている。
不思議なことだが、このマタンゲシュヴァラ寺院は、現在のカジュラーホにおける唯一の「生きた寺院」である。
なぜこの寺院が、他の西群の寺院をおいて唯一の信仰の生きた寺院となったか。
私は、この理由としてバラモン僧バッタヤショーダラの、ダンガ王に対する「敬愛」ゆえではないかと感じるのである。それは、王とバラモン僧という関係を越えたものであった。同時に、彼の葬祭寺院に巨大リンガを祠るという、バッタヤショーダラの「深慮」があったのではないかと推測するのである。
チャンデラ朝の最盛期の頃、ダンガ王はヴィシュヴァナータ寺院を創建し、エメラルド製のリンガを奉納した。エメラルドのリンガの奉納は、特別な意味があってプラーナには政治的な意図が達成したとき宝石のリンガを奉納すると規定する。
ヴィシュヴァナータ寺院の完成が1002年で、この年にダンガ王が亡くなっているから、彼にとっては人生の総決算としての寺院建設であり、リンガ奉納であった。
ヴィシュヴァナータ寺院の建築家ヒチッチャは、設計プランとしてはラクシュマナ寺院に近いが少し大きく計画した。
ヴィシュヴァナータ寺院のシカラは、副シカラの構造を持ち50年後に建つカンダリアマハーデーヴァー寺院の前の段階である。これらの副シカラの重なりが全体として聖山カイラス山をイメージするよう徐々に高くなり、一番高いシカラの真下にリンガをおいた。
このリンガは、もっとも高い実在性の象徴であるパラー・シヴァ神であり、世界を保持し破壊する。
玄関からリンガを祠った聖室(ガルバグリハ)までの壁面は、三っつの帯に彫刻を並べて荘厳し、それぞれをシヴァ神の無活動の側面と、ヴィシュヌとブラフマーを示している。この帯状の彫刻群を飾るのは、今まで述べたミトゥナ像や若い女性像である。これらのミトゥナ像を「吉兆」とみなし、邪悪や災難を防ぐ働きがあると考えた。また女性像は、出来るだけ男の目を魅了する美しいものとした。
彫刻家は、女性のどのような姿が一番コケテッシュであるか熟知していた。
これらの女性像は大別するとアプサラ(天女)やガニカー(遊女)やスラスンダリー(天人)やナイカー(美女)であるが、モデルとしているのは、当時の王室や貴族たちの娘等であり、服装や装飾品も非常に豪華である。
これらの女性像の中には、サソリを腿につけたスラスンダリーが散見できる。(図2-7)体全体の印象をよく観察すると、このスラスンダリーは、自らの手で裳裾を開いて陰部を露出した瞬間を表している。
このような表現、なぜサソリであり、その所作の意図は何であろうか。
「欲望が昂じたときには、サソリに刺されても痛みが感じない」ということを表している。これはゴータマ君の説明。
別の説明では、「サソリを取り除く目的のために、一瞬、裳裾を開いて陰部をさり気なく露出する」いわばカジュラーホの芸術家の詩的な工夫であるという説。もっともこの説ではサソリでなくてはならない理由はない。しかしながら、本質的には『美女の腿に這うサソリ』は、そのイメージの対比において、中世的な美意識として理解できる。
最後の説は、日本でいう「語呂あわせ」である.
インドでは、ことば同士の語呂合わせがよく利用されるが、それ以外にも「造形表現における洒落」などもよく使われる。
図2-7 美女とサソリ