古来、スールヤ寺院を訪れた西欧の学者達は、その理由として、当時の性風俗の反映、落雷から寺を守るため、彫刻家の欲望の現れ等と説明した。
しかしこのような社会的な原因より、ヒンドゥー教内部にその原因を含んでいる。というのも、ヒンドゥー教を少しずつ理解してゆくと、その二面性に気付く。
一つは仏教にも似た静的な側面、たとえば解脱、瞑想、離欲等のイメージから理解される哲学的な側面である。もう一つは密教像などに見出せる、世俗を肯定し特に性的な意味での女神崇拝を中心とした動的な側面である。
一般的な日本人にとっては、ヒンドゥー教の哲学的側面は馴染みやすいであろう。しかし、ミトゥナ像や女神崇拝における動物供犠などの猥雑さ、血への賛美、は普通の日本人の感覚を超えている。このような動的な要素は、実はタントリズムと呼ばれる流れにほかならない。
インドを理解しようとするとき、タントリズムの象徴の多様性と意味の不明瞭さ、不可思議性を抜きにインドを語ることはできない。それだけに、そのことが私の心を捉えるのだ。
ここではヒンドゥー教史におけるタントリズムを位置付けてみよう。
しかしながら、タントリズムにおいては性行為は大切な宗教儀礼であっても、なぜ寺院のいたる所に飾る必要があったかという問題が残る。
このことについては、タントリズムには三つの実践形式があり、なかでも最も重要なものが神殿における動物供犠や、人身御供を伴った女神崇拝(プージャ)である。
一昨年訪れたカルカッタのカーリー寺院、アッサムにあるカーマキャ寺院などが早くから名高い。
インドの伝奇集『カター・サリット・サーガラ』の一節『屍鬼二十五話』にこういう話がある。
「彼はガウリー女神の神殿に入り、礼拝して女神を観想しました。その女神は、その18本の腕で狂暴な悪魔を粉砕し、その蓮華のような足の裏で阿修羅マヒシャを打ちひしいでいました。観想の結果、運命にせきたてられて覚悟を決め、彼は次のように考えました。
「人はさまざまな生贄によりこの女神を崇拝する。しかし私は成就するために、自分自身を犠牲にささげて女神を満足させることにしよう」
彼はそう考えるやいなや、人気のない内陣から、以前ある巡礼者達によって女神に奉納された剣を取出しました。そして、自分の髪の毛で頭を鐘の鎖に結び付けてから、自分の首を剣で断ち切りました。」
この女神ガウリーとは、一般にドゥルガーと呼ばれる女神である。
上の文章に「観想」とあるがこれは、日本の真言密教などでもいわれる、精神を集中して心の中に具体的かつ現実的な姿を描くことである。そして、女神の姿がありありと見ることができて初めて礼拝が可能になる。したがって信仰篤い信者にとっては、礼拝をする前に何か女神のモデルを見ておく必要性があった。
一般庶民にとっては、ことばや意味や観念よりも、具体的なイメージによって神々を理解することが最も効果的である。
この辺りの事情は、偶像を廃するイスラム教と全く異なっている。
現在ならば巷にカラー絵写真が溢れて具体的なイメージにこと欠かないが、中世の当時にあっては壁面を飾るこれらのミトゥナ像の助けがどうしても必要であった。したがってこれらの官能的な神像は、美術的な作品というよりも、むしろ信者たちの信仰心を教え育てる教材としての意義があった。
グプタ朝以降、正統バラモン教圏外では、3つの民間宗教が芽生え始めた。
北インド・マトゥラーを中心に起った愛の神クリシュナ信仰、山岳部では荒らぶる神ルドラ・シヴァ信仰であり、社会の底辺層では女神崇拝(タントリズム)である。バラモン教が高度に発達した宗教哲学に対して、これらの民間宗教は、現世利益の肯定、現実生活の重視、神の恩寵に頼る他力主義などの特徴を持つ。
この中でも女神崇拝に代表されるタントリズムは、3つの文化要素が重層的に含まれている。一つはインダス文明(BC25世紀~BC20世紀)に源をもつ農耕民の性的儀礼や女神崇拝、リンガ・ヨーニ等の生殖器崇拝、ヨーガなどの非アーリア的要素である。
二つ目は、南インドで今でも信仰される「村の女神」(グラーマ・デーバータ)と言われる豊富な説話を含むドラビダ民族神の系譜である。
三つ目は、ヒマラヤの女神ヒマヴァティー(パールヴァティー)やウィンデヤ山脈の女神ドゥルガーなどの土地・山脈の守護神としての女神達の潮流である。これらの三つの始源は、バラモン教から発達したサーンキヤ哲学の影響の元に、シヴァ信仰の成立と合間って紀元800頃からシヴァ神の配偶神としてのシャクティ(性力)信仰が起ってきた。
シャクティ信仰では、シヴァ神は「純粋精神」であって非人格であり、無活動である。むしろシヴァ神の配偶神としてのシャクティこそが世界展開の「原動力」であり、あらゆる活動の源となっている。そしてシヴァとシャクティが完全に結合(性行為)することによって、「宇宙の自然エネルギー」と「自我」という二原理の融合が行われ、宗教的な至福に達成すると説かれる。
いい換えれば、精神の解脱と肉体の享楽とは究極において一致するという新しい宗教観である。今までの解脱、修業を目的とする宗教では性行為は負の面しか持っていなかったが、ここにきて
「人間は自分を倒す相手(性行為)を利用して、立ち上らなければならない」
と表現されるように価値の転換を行い、宗教儀礼の中心に「性行為」を置いた点が際立っている。したがってタントリズムにおいては「性行為」は宗教儀礼であり、ミトゥナ像はこのことの美術的表現に他ならない。
スールヤ(太陽神)寺院は、海端のヤシ林のなかにあった。
潮風と、木々の間から突き刺すように降ってくる光は、起きたての目にはまぶしい。
正門(獅子門)からはいると最初に目に入るのは巨大な柱の跡だけになった舞楽殿である。建てられた当時の寺院構成は、獅子門から拝殿・本殿(高塔)が一直線に連なり、その周りを石塀が取り囲み、ガンガ朝の官寺(王の寄進した寺院)として近隣にに威容を誇っていたはずである。(図1-1)
現在は、本殿は残っていない。
ブヴァネシュヴァルにある諸寺を見慣れた眼には、その拝殿だけの大きさだけでも類がない。
この寺院は、ナラシンハ・デーバー1世(1238~1264年)が建立した大寺院である。現在では無住の廃寺となって、インドの抜けるような青空のもと、むなしく巨大な拝殿のみを白日にさらしている。
旅をして多くの寺院を訪ねると、その栄枯盛衰の差に驚かされる。この違いは、単に寺院規模の問題だけではない。プリーのジャガンナート寺院のように人気のある寺院は、遠くからでも高塔の上に赤い三角旗が翻り、入口辺りは黒山の老若男女が集っているのですぐにわかる。このような民衆の崇拝の対象になっている寺院は、規律も厳格でヒンドウー教徒のみ入場が許される。ブヴァネシュヴァルにも現在多くの寺院が残っているが、信仰を集めているのはリンガラージャー寺院くらいで、概して官寺は人気がない。この官寺の典型的な例がスールヤ寺院である。(図1-2)
さて、スールヤ寺院のユニークな点は、これらの建造物全体が3mほどの台座に築かれ、台座にはかっては24個の石の車輪が付けられて、寺院全体がちょうど天かける太陽神の馬車の体裁になっている点である。
図1-1 スールヤ寺院配置図
スールヤ寺院の本尊は、拝殿の一番奥を少し登った龕の中に鎮座してあった。本来拝殿の内側にあるのだが、拝殿自体が非常にぜい弱で、現在は建物の内部空間を砂で満たし入り口を石板で密封している。
神像は青灰色の固い岩石、上質の花崗岩に稠密に刻まれ、身長2mほどのほっそりとした立像である。像の下部には前足を宙に上げた馬が7頭、手綱を付けて彫りこまれていた。両手は腕の部分から欠け元の形態は不明だが、天空をかける戦車に乗って手綱を握った姿であろう。顔の表情は少し固いが、広い肩、ほっそりとした胴、左肩から聖紐をかけた若々しい青年像である。(図1-3)
不思議なことに、足は脛まで長いブーツを履いているが、これはインドにおける太陽神はペルシャ起源という説であるが、よくわからない。ただ、主神像の背景を3等分し、小型の神像を配置した点や、スールヤ像そのものが非常にほっそりとした体つきなどの特徴は、パーラー朝仏像に似ている。
寺院の南面・西面の像は、海風の影響もあって、かなり磨滅しているが、北面と東面の像はまだ当時の面影を十分に残している。特に拝殿の上部にあるアプサラス像はスールヤ寺院の白眉といわれる。これらの楽器を奏するアプサラス像は、ブヴァネシュヴァルの他の寺院のそれと異なって、トリバンガ(三屈法)に曲げられた足腰・楽器を持った腕もたくましく、顔つきも柔和にほころんでいる。明らかに階下のミトゥナ像とは違った上級の彫刻家の手によるものである。
図1-2 スールヤ寺院全景
図1-3 スールヤ立像
インドの庶民レベルに於ける信仰の核心は、高邁な哲学・業からの解脱などではなく、これは日本でも同じであるが現世利益につきる。
さて、スールヤ寺院を語るときに忘れることができないのが、寺院外壁の至る所に見受けられる見事なアプサラス(天女)やミトゥナ像である。
カジュラーホの寺院などでもそうだが、スールヤ寺院の外壁の至る所にアプサラス、ヤクシー(樹神)、ナーガ(竜神)・ナーギニー(竜女)などの像やミトゥナ像(歓喜像)が見られる。(図1-4)
日本人の感覚からすれば、神聖な寺院に何故このような官能的な像を並べるのか、理解に苦しむ。
図1-4 ミトゥナ像(右端から2番目)