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第1章 ブヴァネシュヴァル / インド・シンボリズムへの旅

第3節 ヨーギニー女神の微笑み

 OTDCの1日旅行から帰って、再度ヒラプルに出発したのは5時30分を過ぎていた。昼間ジャガンナート寺院に寄ったとき、たまたまガイドのN氏に

「ヒラプルという町を知っていますか」
と聞くと
「おや、あなたはヨーギニー寺院を知っているのですか。もし行きたいのでしたらこれが終ってから案内しますよ」
という、二つ返事であった。
 私としては、このOTDCの1日観光を申し込んだときに、ひょっとしてヒラプルが行程に入ってないか微かに期待していた。結果としては、入っていなかったので、今回ヒラプルを訪れることを半ばあきらめていた。
 神戸を出発する前に、出来ればヒラプルに寄ってみたいと思って、旅行会社にオリッサの観光地図を頼んだ。この地図は、オリッサ州発行の観光地図であったが、ブヴァネシュヴァルの近くにはヒラプルの名前を見つけることはできなかった。多分小さな村なのであろう。

 オリッサにはヨーギニー寺院は二つあって、一つはラニプル・ジュハリアルに、もう一つがこれから訪ねようとしているヒラプルのヨーギニー寺院である。(図1-5)

ヨーギニー寺院の立地の一般的な特徴は、町からそれほど遠くない所、近くに人家などない、どちらかというと人目に付きにくい丘の上などに設けられる。ヒラプルの例でいうと、ブヴァネシュヴァルの町から12km程の所だから、1日で十分往復できる距離である。このように町に対して余り近からず遠からず、人目につきにくい立地が大切なポイントであるが、このことについては後で詳しく述べることにしよう。(図1-6)

 例の本には、ヨーギニー寺院の背景として
「私は、ダコイットと知られる強盗団がまだ活発に活動していたインド中央部にはあまり旅しなかったが、それでも興味深い出来事に遭遇することがあった。ヨーギニー寺院のあるデュダーヒでは、村人達は私をその地方のダコイットの女首領ハシナの一味だと考えたので、部落全体にバリケードをして入れてもらえないことがあった。
 また、ヨーギニー遺跡のあるナレーサルでは絶えず子供の誘拐事件が散発したが、ヨーギニー寺院はこれらを行ったダコイット達の安全な隠れ家としてしばしば利用されていた。」

ということだったので、こんなに簡単にいけるものかと、嬉しさ半分危惧半分である。しかし心配ばかりしていても話しは進まない。NさんはOTDCの公式ガイドであるから信頼できるだろうし、後は何とかなるだろうと
『・・・・・それではよろしくお願します。・・・・』
ということにした。

図1-5 オリッサ州全図

図1-5 オリッサ州全図

 ボンベイのウォーケシュヴァル地域というのは、手元に詳しい地図がないのでどの辺りになるかよくわからない。しかしボンベイで女神信仰というと、真っ先に挙げられるのはムンバーデービー女神である。

 とすれば、実はムンバーデービー女神は、ヨーギニー女神の1人ではないかという可能性が強い。これは十分に考えられることである。

 私は、この着想を得たとき、愕然となった。         
 というのも、私にとって過去3回のインド旅行は、なぜだかわからないままにヨーギニー女神を中心に回ってきた。ムンバーデービー寺院の一件から始まり、インド国立博物館での『ヨーギニー崇拝とその寺院』の本の購入、次の年はヒラプル訪問、ブヘラガート訪問と続く。
 しかし、今から考えてみると実は最初にインドに来たときから、ムンバーデービー寺院で水を掛けられたときから、因縁付けられたと感じたのである。
 こう考えてみると、あの水を掛けられたことは確かに「速やかに立ち去れ」という意味ではなく、まさしく女神の祝福、「ヨーギニー女神の微笑み」であった。

図1-6 ブヴァネシュヴァル近郊地図

図1-6 ブヴァネシュヴァル近郊地図

 Nさんのスクーターに後ろに乗せてもらって、街道を幾つかの小さな村を過ぎ、土道に降りてほぼ40分。
 空が茜色に染まる頃、ようやくあの本で見た円形石造のヨーギニー寺院が見えた。
 赤トンボが寺院の上を群れをなして飛んでいた。
 簡単な鉄柵で区切られた門構えのなかに新しいシヴァ神の祠堂があり、ヨーギニー寺院は、その向こうにあった。写真では大きいようにみえたが、実際は直径7mほどか、想像していたものよりもずっと小さい。
 寺院全体は円形をしており、1ヶ所に出っ張った狭い入り口が付いているので、ちょうど平面図では鍵穴のような形である。(図1-7)

図1-7 ヨーギニー寺院(ヒラプル)全景

図1-7 ヨーギニー寺院(ヒラプル)全景

 入り口の所で例によって靴を脱ぎ、屈んで中に入ると正面に矩形の壇が立っている。ヨーギニー寺院の構造は一般的に、天井のない円形構造をとっており、中央の広場の真ん中に壇が建っているので全体としてみると祭器ヨーニ・リンガの象徴と見ることができる。
 インドでは寺院は神の身体そのものと考えられているので、タントリズムに根ざすこのような寺院に最も相応しい構造であろう。

 内部の円形の直径は5m程か、天井がないせいか一般の寺院に比べる重苦しさもなく、昼には青空が・夜には星空が望める。内壁には壁に添って壁龕をうがち、女神が60体、中央の壇に4体、合計64体の女神を祠る。そのほか壇にはシヴァのパイラヴァ(憤怒像)が4体ある。(図1-8)

 女神像は、寺院全体が粗雑な砂岩に対して、固い緑泥岩(スールヤ像と同種の岩石)の彫像で写真で見るとかなり大きく見えたが、実際には身長35cmほどで、像の作りが非常に細かくできているので完成度の高い優品である。

 ヨーギニー女神の第一印象は、女神というよりも生の人間臭さと、豊満な女性としての魅力である。
 張り切った乳房、くびれた胴、ほとんどの像がトリバンガ(三屈法)に腰をひねって女性らしい躍動感に溢れる。
 特にその独特の足の美しさは特筆しなければならない。デヘージャー氏は「肉感的で、バナナの幹のような滑らかな脚」と表現した。現実の姿では、脚を薄い裳で覆い、それを腰帯で留めているが、浮き彫りではこの裳はほとんど現されないので、脚はむき出しのままである。当時の美人の条件の一つに「足の滑らかさ」があったのではないかと想像できる。

 ほとんどの腕は破損して無いのは惜しいが、それでも女神の美しさを損なっていないのは、この石工の技量を表している。

 装飾品としては豪華な耳輪、豊かな乳房を強調する宝石の付いた首飾り、単純な二つの腕輪、大きく編んだ腰帯の一端は前に垂らす。長い髪は盛り上げるようにして宝石類の付いた髪飾りでまとめてあるが、この当時の王侯貴族の流行なのであろうか。
 装飾品は別にして民間信仰におけるインド美人の典型、ヤクシー(樹精:ヤクシニーとも)の系譜を引き継いでいる。

 ヤクシーというと、バールフトのものやインド博物館のものが著名である。
 ヤクシーの起源は非常に古く、紀元前まで遡るといわれるが、花を咲かせ果物を実らせる豊穣神として古代から信仰された。樹精といわれるように大樹に宿る精霊であるが、通常樹を背景にして腰をひねりながら枝をつかみ、場合によっては足で幹を蹴っている姿で描かれる。
 中世の頃になると、ヨーギニーと混同され、好色でかつ超能力を持った存在として崇拝された。樹の下に野宿する一人旅の旅人を誘惑し、性力を絞りとる女精ではあるが、母として妻として適切に崇拝すれば偉大な力によって願を叶えてくれると信じられた。このヤクシー(ヤクシニー)については、後の章で詳しく述べる予定である。

図1-9 アンクレットを直すヨーギニー

図1-9 アンクレットを直すヨーギニー

図1-8 ヨーギニー寺院平面図

図1-8 ヨーギニー寺院平面図

 少しずつ暗くなってきたので、二体一組にして写真を撮った。
 それにしても64柱のヨーギニーの容貌は変化に富んでいる。
かかとを持ち上げて、足の刺を調べる女神の思案げの口元。(図1-9)武装した女神は戦闘の合間のつかの間をまどろむ。(図1-10)また左手は施無畏印に前に出し、右手を軽く腰にあて気取ったポーズをとる女神。(図1-11)

 基本的には人間の姿をとるが、なかには馬頭、ロバ、ライオンの頭を持ったヨーギニーもある。一体だけ老醜の体に肋骨が浮き上がり、垂れ乳のチャームンダーに似たヨーギニーもあった。

 それぞれのヨーギニーの持物・乗り物(ヴァーハナ)はほぼ判別できるのだが、名前は確定できない。普通インドの神格は儀規に則って描かれるので、持物・乗り物さえわかれば神名は同定できるのだが、ヨーギニーの場合はこれが難しい。

 主尊・マハー・マーヤー(偉大なる幻想)には赤い大きなエプロン状のものが掛けられて、茉莉花(マツリカ)が顔を取り巻くように飾ってあった。この尊名は、この世はマハー・マーヤー(マーヤーより成るもの)であり、神々もマハー・マーヤー(偉大なる幻想)の所産であることに由来する。

 幾つかの女神にはマリーゴールドなどの花が飾られてあったが、現在でもプージャ(儀礼)は行われているのであろうか。
 ここからは、神戸に帰ってからの話である。
 ヨーギニー女神の一連の写真を現像してみると、像の輪郭が鮮明に出ていないのでがっかりした。なぜはっきりと映っていないのかと、再度それぞれの写真を虫眼鏡で調べてみた。するとヨーギニー女神の頭からひざ辺りまで、背面の壁を含めて煤かなにかを不自然に塗った跡があることに気付いた。このため上半身全体がはっきりとした輪郭が出ていない。この跡はすべてのヨーギニー像と外壁の女性像に共通している。再度、虫眼鏡で拡大してみると、外壁の女性像には3、4枚煤を塗りこぼした箇所があり、その辺りには褐色のしみ(血の跡)が残っていた。

 もう一点は、元々ヨーギニー寺院には内部に降った雨水を外壁を通して外に出す排水口が何ヶ所か設けられているが、今回訪れた時には敷地の隅に今までなかった排水設備の工事が行われていた。排水設備は儀礼の血を洗い流すもの、煤は一種のカムフラージュと考えると、ヨーギニー女神の儀礼は現在も続いているが私の結論である。

図1-10 まどろむヨーギニー

図1-10 まどろむヨーギニー

図1-11 ポーズを取るヨーギニー

図1-11 ポーズを取るヨーギニー

 ヨーギニーの儀礼は、詳しくは明らかになっていない。
 ただ、水や米を供え献花をするような比較的穏やかなタイプのものでないことは明らかである。たとえば先程述べたチャームンダーに似た像では、左手に切断された人間の首を持っているし、これらヨーギニーの中には切断された頭に立っている例がある。
 寺院の内壁の写真を撮り終えた所で、この寺院の管理者が現れ、ガイド氏と何やら談笑をはじめた。私は寺院の外壁の像を撮るために外に出た。

 外壁にも等間隔に壁龕をうがち、9体の女性像がそれぞれ切断された女の首に立っている。髑髏盃で血を飲む者、曲がったナイフを振り上げ投げ槍を手にする姿等、どうも無気味である。内部のヨーギニー像とは違って、顔はほとんど破壊されているが、それでもその表情は異様であることを読み取ることができる。(図1-12)

 これらの切断された女達の首の容貌は、意図的に髪型、鼻の形などヨーギニー達と人種的・階級的に異なるように表され、装飾品も耳輪だけである。また切断された首の両側には二匹のジャッカルがお互いに向き合って配される。
 犬の一種であるジャッカルは、シンボルとしては「腐肉を漁るもの」、転じて「市街地の清掃業者」であり、したがって犬は現在でもヒンドゥー世界では不吉な者で嫌われる。シンボルの機能として、首とジャッカルを配して、死のイメージの付いた首、「切断された首」を意味する。

図1-12 カートヤーヤニー

図1-12 カートヤーヤニー

 9体の女性像全員は、下の少女の差し掛ける日傘の下に立っているが、これらがどのような人物であるかは意見の分かれる所である。オリッサ出身のH.C.ダース氏は、カートヤヤニー(バラモン階級の女神)というし、デヘージャー氏はドゥルガー女神と比定する。
 私はこれらの人物は傘を差し掛けられているという人間的な所作から考えて、貴族階級の儀礼参加者と考える。この説に従えば、切断された首に乗ったり、髑髏盃で血を飲んだりする所作はヨーギニー女神の儀礼そのものを表しているのではないか。

 さて、インドにおける宗教儀礼は、儀礼そのものが象徴化され、象徴を通じてしか理解されない性質のものである。ヨーギニーの儀礼を考える前に、昨年訪れたエローラ近くのシヴァ寺院、グリシュネーシュワル寺院で見た儀礼を象徴化の例にして考えよう。

 この寺院は、エローラの近くにあるシヴァ寺院だが、ヒンドゥー以外にも開放され、私達も入ることができる。ただし靴を脱ぎ上半身は裸で、革製品は身につけないという制限がある。
 入り口の所から急な石の階段で降りるようになっており、降りきった所が堂内である。20畳ほどのの正方形の石畳の正面に、黒御影石のリンガム(男根)が直立し、その根元が白御影のヨーニ(女陰)の円盤を形作る。
 堂内は、司祭の唱するサンスクリット語のマントラと主司祭の掛け声、参拝人の祈りの声、赤い岩板を敷き詰めた堂内全体にぼーと反響して頭の芯が酔ってくるような雰囲気である。原色の赤や黄色のハイビスカスの花々、香料の匂い、水がきらめき非常に活動的である。

 リンガムの右端に立った供養を司る主司祭が、参拝者の献花やその他の物を受け取ってはリンガムに捧げる。他の副司祭は壷に入れた牛乳をリンガムの上から注ぐと、滴り落ちた牛乳はその下のヨーニに流れるが、もう一人の司祭がタワシのようなものでヨーニにあたる円盤に万遍なく広げ、擦りつける。
 これを繰り返した後、今度は牛乳を注いだ副司祭が真水をバケツでリンガムの上から流し、下のヨーニに流れた牛乳をきれいに洗い流す。見たところでは、大体これらの動作の繰り返しで、一つの儀礼が終わるようである。
 もちろんこれらの儀礼は、性交をシンボル化している。
 シンボリックに性交を行うことが、どのような過程をへて「神への儀礼」になるのだろうか。

 インドの人々は、昔から「象徴化」という過程を通して物事の本質に迫るという方法をとってきた。そしてシンボルは、インドに古くからある「マーヤー」という概念、つまり「この世のものは仮の姿であり、幻想というヴェールをまとっているので、本当の姿は見えない」という考え方と密接に結び付いている。
 この例でいうと、リンガムに注がれた牛乳は吹き出した精液であり、滴り落ちてヨーニを流れることは性交によるヨーニへの射精を意味している。この二つの行為全体、シンボリックな性行為を通じて単なる黒い石としての現実のリンガムが、真実(リンガム=シヴァ神)に変化する。
 「識る」ということは、対象がその実存的存在を超えて文字通りシンボルとして知覚されることをいう。
 したがって、この様な象徴的な行為をへないリンガムは、マーヤー(幻想=現実)であってリンガム=シヴァ神という認識ができないのでプージャ(神への儀礼)自体が成立しないのである。
 しかしこのような信仰形態、白檀の香る堂内でのリンガム崇拝、秘教的なマントラの響き、礼拝後に灰を額に塗る行為等は、一見呪術的である。しかしそれらの信仰儀礼の底に流れるシンボリズムを認識すれば、日本人にも理解可能である。
 額に白い灰(実際は白檀の粉)をつける行為も、「人間はいつの日にか滅び、焼かれて灰になるという真実を肝に命ぜよ」ということであった。
 象徴行為を通じて、真実を認識するのである。

第一章章末イメージ

 さて、話をヨーギニー儀礼に戻そう。
 『インド教』(井原徹山著)によると、ヨーギニー儀礼(チャクラ・プージャ)とは、一般的に
「深夜、秘密裏に男女同数がヨーギニー寺院に輪座を作って集まり、近親・骨肉・階・級・種族を選ばず5M(後述)によって礼拝する方法」
といわれる。

 儀礼の形式の特徴をもう少し詳しく述べよう。
 第1に、タントラ教は一つの実践であり、行為であるためグル(導師)の指導を通じてのみ正しく行われる。またヨーギニー儀礼は口承儀礼であり、その集団は秘密結社としての性格を持つ。したがって、グルの主導する入団式(イニシエーション)を経ない者は、入団できず何一つ具体的なことは分からない。
 また入団式を経ない外部の者にこれらの秘密を漏らせば、たちどころにヨーギニーに呪われるか、「餌食」にされると固く信じられてきた。ヨーギニーはそのような特別な能力があり、畏怖されてきたという点が重要である。
 その結果、最近まで秘密が守られた。

 デヘージャー氏自身も、研究を始めるにあたってこの秘密の壁の問題に突き当たった。「予備的な研究を通じて、ヨーギニー崇拝はタントラ教の性質を持っていることがわかったので、私はこれらの古代に失われた伝統にたいする洞察力を得るためにタントラ教のグルと情報を交わすことを試みた。・・中略・・
 すぐに私はこのことが実際的な解決にならないことを悟った。このような入団式は北インドでは(南インドとは対照的に)決定的に信用できないものであり、また入団式後に知り得るすべての情報にたいして秘密を守ること宣誓をしなければならない。それゆえ、私はインド亜大陸の色々な場所において記録類を収集する方法に変えた」
 とある。

 第2にヨーギニー崇拝の目的は一口でいえば、秘術的な魔力の獲得である。
 仏教などでは解脱(ムクティー)を目的とするが、ヒンドゥー教、特にタントラ教では現世利益(ブクティー)の最も直接的な方法、超能力の獲得である。
 一般的には8つの奇跡的な力(アシュタ・マハー・シッディー)といわれる。
 これらは身体を自由に拡張・縮小にしたり、催眠術のように他人を自由に操る力、また自然を左右して雨を降らせたり干ばつ・洪水を起こさせ、地震を起こす力を含む。タントラ文献によっては空中飛行したり、自身を見えなくする力などであるが、要するに崇拝者の望むいかなる力でも可能である。

 儀礼を構成するメンバーの特徴は
(1)儀礼参加者は男女同数である。
 メルー・タントラ(タントラ教の経典の1種)では
 「このような輪座の形をとる最少8人・4組である。特に強調される点は、男女は 同数ということ、同時に男女はそれぞれ面識もなく、お互いに付き合いもないという こと。また輪座に入るときは1組で入ってはならない」
(2)儀礼のあいだは、「個々のカースト階級は無視されるが、輪座が解消されれば男女はお互いのカーストに戻る」
 と繰り返して説明される。
 (1)の条件は、後述するように儀礼の内容に性行為を含むため男女同数であり、「面識がない」という条件は、共同体の人間関係(近親・骨肉)を引きずれば儀礼を行うことが難しい。
 (2)の条件の背景には輪座が形成される間は、

「男性はすべてシヴァ神であり、女性はすべてデービー(女神)とみなされる」
 であり、神格には階級が存在しないしことがその理由である。このような「即身成神」という、男性がシヴァ神となり、女神としての女性と儀礼(性交)を行うことが左道タントリズムの特徴である。

(3)「カウラの道の追随者(ヨーギニー崇拝者)は、性交の相手としてカースト最下層 の女性が最も適したタイプの女性として規定する。それらはラジャキー(洗濯女)、カルマカーリー(皮革工女)、ヴェスヤー(売春婦)、マタンギー(アウトカースト)、マドフマディー(葡萄酒販売女)である」
(4)5Mとは、以下のことである。
    Madya   酒
    Mansa   肉
    Matsya  魚
    Mudra   乾菓子
    Maithuna 性交
 すなわち、ヨーギニー儀礼においては「儀礼において、酒を飲み、肉・魚・乾菓子等を食べた後、相手を選ばず性交を行う」ことが必要である。

​ (4)については、常識的な日本人の感覚では理解を越える内容であろう。同時に、ここにおいてヨーギニー寺院がなぜ町から少し離れた位置にあり、しばしば人里離れた丘の上に在るということ、秘密儀礼であることも納得できるのである。
 ヒンズー教徒は現在でも肉食、飲酒は宗教的に許されない。バラモン階級では特にこの傾向が強く、一般に野菜食である。卵でも無精卵は良いが、有精卵はいけないなど非常に厳格である。また、「浄、不浄の区別」の感覚が強いので、結婚などでも他カースト間で行われることは現在でもほとんどない。したがってヨーギニー儀礼の内容は、食物・性交の対象として「不浄の極み」を行うことであるから、秘密儀礼になることは説明を要しないであろう。

 さて本題に戻って、「儀礼において、酒を飲み、肉・魚・乾菓子等を食べた後、相手を選ばず性交を行う」ことがどのようにして儀礼と結び付くのか。また儀礼におけるこれらのシンボルは、どのような意味を持っているのであろうか。
 まず第1に5Mを行うことは「正統ブラフマーニズム」の価値観の破壊を意図していと考えられる。
 酒を飲み、肉・魚・乾菓子等を食べ性交を行うことは、どれ一つとっても野菜食をするバラモン階級から考えると「不浄」であり、とうてい許されることではない。それを敢えて行うことは価値観の破壊であると同時に、より積極的にブラフマーニズムの「価値観の逆転」を試みているのではないか。
 とするならば、「正統ブラフマーニズム」に対置する価値観・シンボルとは何であるのか。

 以下の表にシンボル(価値観)の逆転をまとめると

左道タントラ教のシンボル

 5Mについては、「正統ブラフマーニズム」では《不浄》ということばで一括するが、タントラ教では『マハーニルヴァーナ・タントラ』にあるように
「享楽を与え人々の苦を除く酒は《火》、心身に栄養と力をもたらす肉は《風》、生殖力を増進する魚は《水》、地上に生じて生命の元になる穀物は《地》、世界のすべての創造の根源である性行は《空》である」
と規定し、尊重する。そしてブラフマーニズムのとっての《不浄》さの極みにおいて、全く新たにシンボルの逆転を行い、それを《聖なるもの》として行う。男性崇拝者はシヴァ神として、シャクティーとしての女性との交合によって最も理想的な状態に達し、その状態でヨーギニー崇拝を行うことが必要である。

 また、仏教系『秘密集会タントラ』には
「肉体を形成する地,水,火,風,空(5大)と感覚を司る目,耳,鼻,舌,身(5感)を適当に享楽せしめることは、最高の《義務》と考える」 
とある。
 (3)についても、同様に「正統ブラフマーニズム」では最も《不浄》と考えられる階層の女性パートナーであるが、ここにおいても
「最も《不浄》なものこそ、最も《聖なるもの》と一致する」
 すなわち、女性が《不浄》であればあるほど《聖なる者》女神へと近づいてゆくという「価値の逆転」が見られるであろう。

 さて、ヨーギニー崇拝の基本は、輪座崇拝(チャクラ・プージャ)であるが、インドにおけるこの流れを追ってみよう。
 6世紀頃の輪座崇拝の初期の時代には、まだヨーギニー寺院もなく、帰依者は、深夜荒野に火を焚いて集り、カバの木の葉や絹布に描かれた女性生殖器図を崇拝していた。この方法はしだいに生身の女性の生殖器を直接崇拝(シュトリ・プージャ)する方に変わってくるが、一般にはこのような「カウラの道」を行うものは「異端」であるという認識であった。
 「カウラの道」の追随者が増えるにつれて、「正統ブラフマーニズム」のほうでも新しい宗教秩序を維持するために、ヨーギニーは偉大な女神(デービー)の化身であるとか、または偉大な女神の伴神(参列神)として取り入れられてくる。この時点でヨーギニーは神格として位置付けられ、64または81柱の女神としてそれぞれの持物・乗り物も分配されはじめた。

 この頃になると一般大衆だけでなく、バラモン階級や貴族階級、王侯すらも儀礼に参加するようになり、少しずつヨーギニー寺院も建立された。
 ヨーギニー儀礼は表面だけ観察すれば、「価値の逆転」という命題も、現実には人間の欲望を肯定することであり理解しやすい。したがって一般大衆からは、行うことはやさしいという意味で「安易道」と呼ばれ、熱狂的に迎えられることになる。
 実際、日々の生活に追われ、常時「不浄物」を扱う階層にとっては、これほど都合のよい道はないであろう。
 この結果、左道タントリズムの流れは爆発的に一般民衆のみならず神学者や哲学者の間にも広まってゆき、汎インド的な潮流として哲学・倫理・文学の領域まで根を下ろしてゆくのである。

 元来、タントリズムは、仏教とヒンドゥー教のせめぎあいの中で、仏教側の起死回生策として最初に生まれた。タントリズムの流れはヒンドゥー教にもとり入れられ、仏教では金剛乗(密教の一種、ヴァジュラヤーナー)として、最後にはジャイナ教さえも影響を受けてゆく。  
 このようにタントラ隆盛の時代を迎えると、かつての「価値の逆転」は、「新しいシンボル観の成立」とその「大衆化」に変質、敷衍する。
 タントリズムのこの様な「大衆化」の流れのなかでは、ヨーギニー崇拝も種々の崇拝形態をとり、様々なレベルでの崇拝が行われた。
 ヨーギニー崇拝の目的も、「大衆化」の流れのなかで当初の8つの超能力の獲得法から変化し、卑俗な性格を帯びてくる。
 敵を呪い殺す法、反対に他人からの魔力から身を護る法、相手を意識不明にする法、洪水を起こさせる法、他人を自分の家から追い払う法、隣人の妻を誘惑する法等である。このように時代が下るにつれて他人の不幸は無関心に、自分の欲望さえ満たせばよいという自己中心的な側面が強くなってくる。これらは黒魔術的な力と表現すべきであろう。ある意味で、タントリズムの流れは「大衆化」と共に、退化ないし堕落してゆく側面が出るのも自然な流れである。

 今回ベナレス空港で、飛行機遅延のため偶々ベナレスヒンドゥー大学の教授K氏と話す機会があった。色々と話した中で興味深かったのはタントリズムの評価の話である。
 K氏によると、
 「タントリズムはあまりに自己中心的であり、それゆえ精神の発達が遅滞される点がある」
ということであったが、まさに正鵠を射た指摘であった。
 「また、タントリズムは確かに多くの人を引き付ける何かを持っていたが、安易な道ではあり問題も多く含んでいた」
という含みのある内容であった。
 確かにタントリズムは「大衆化」の中で、退行的な側面を現しはじめるが、一方では積極的に評価する面がある。 
 宗教史の上では、太古の地母神信仰に根ざす「女神の復活」である。
 旧来の「村の女神」に対する村人の信仰は、子供の出産や愛する家族の死、飢饉にあったり伝染病にかかったり、時々の生活に密着した素朴なものであった。中世以降押寄せる「正統ブラフマーニズム」の前では矮小化され、非力なものと考えられた。これらの「村の女神」の信仰は、ヒンドゥーパンテオンのなかでヨーギニー崇拝としてより強力に復権してくるのである。

 もう一点は、タントリズムは、当時の「正統ブラフマーニズム」に対する宗教上のアンチ・テーゼであり、カースト制度におけるヒンドゥー社会の最下層に位置する人々の、桎梏からの開放として人々の要求を汲み取ることができた点である。
 クラールナヴァ・タントラの一節に
「不幸な境遇に陥っている者よ、貧困に打ちひしがれ、争いに悩み、恐怖におののく
ことを止めよ。それらはヨーギニー女神を怒らせ、恩寵を与えないことになる」
とあるように、信仰は自分達を縛るものではなく、苦難のときは励まし、成功すれば激励する、自分達がより豊かに生きるための糧として生まれ変わるという、タントリズムの積極的な側面を忘れてはならない。

 これは、神戸に帰ってからの後日譚である。
ある秋の夕暮れ、長い日差しが部屋を紅に染めていた。 
 先日デヘージャー氏の本を何気なく読んでいて、次の一節を見つけたとき一瞬脳裏をひらめくものがあった。
 「ボンベイのウォーケシュヴァル地域では、1925年以降ヨーギニー女神の寵愛を確保するために、婦人達は女神の年祭を行ってきた」

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