第6章 グワリオール再訪
第1節 ミタウリーのヨーギニー寺院
朝、6時起床。
日本から持ってきた残り少ないコーヒーを飲む。
9時にタクシーを待ちあわせていたので、朝食には時間がまだあった。
私はパンと野菜カツレツ、紅茶を取る。紅茶は、どういうものか日によって味が違うような気がするが、この日はうまかった。
今回の旅行では、ナレーサルとミタウリーのヨーギニー寺院の訪問を一番期待していたから、この影響かもしれない。
昨日、ホテル・タンセンに着いたとき、このホテル内にあるツーリスト・オフィスを訪ねたのだが、日曜日のため誰もいなかった。ホテルの受付でタクシーの手配を頼んだのだが、ガイドは頼まなかった。
運転手君は、背の高いきちんとした身なりの人であったので、自己紹介をしたが、英語は全く通じなかった。
最初にプラウリー寺院に向かう。
グワリオールの北30キロメートルというが、3分の2程はアスファルト舗装の良い道だが、残りはむき出し石の悪路。地道になってから少しずつ進み始めた。しばらく行くと、道は登りになり深い森に入る。村に近づいたせいか、洗濯をしたり、朝食の後かたずけに井戸端で洗い物をする女性達のすぐ側を車は通る。10時頃、村を抜けた所で寺院の外壁が見えた。
寺院は鉄柵で囲まれ、門扉の石柱の上に孔雀が何匹か群れて、森に包まれた廃墟の寺院に、その虹色は異様に美しい。
この寺院は丘の上に築かれて、登り道から見上げると寺院の基壇までは5メートルもあろうか。入り口には2頭の石造ライオンが見守っていた。
見上げるような急な階段を登ると、中央神殿を取り囲んで2階建の矩形の回廊に壁龕が並ぶ。
神像は一体もなかった。
壊れた壁龕は修理され、強度を補強するため石板を埋めてある。
神像の残る中央神殿だけ写真に撮ろうとカメラを構えると、今まで気づかなかった神殿にいた老人が、写真はだめと言う。回廊の隅に布製のハンモックの寝台があったから、老人はこの神殿をねぐらにしているのだろう。
運転手さんは老人といろいろ話をして、写真が撮れるように言ってくれるのだが、老人はだめの一点張りである。多分、神殿の神像はヒンドゥー以外はだめということであろう。
だいたいの状況が飲み込めたので、ここは私が普通の観光客ではないことを認めさせようと、英語で彼らの話に割り込み、壁面を荘厳している神名を立て続けに並べあげた。
すると、運転手さんは私の意図がわかって、この人は普通の観光客ではないのだからと力説してくれた。ようやく老人は写真を撮ることをしぶしぶ認めた。
(3)で「内陣」という言葉を使ったが、この言葉が適当かは問題である。また、ヨーギニー寺院の構造的秘密性と開放性は、言葉としては矛盾するが、部外者に対しては儀礼の秘密を守るが、他方、血の儀礼をともなう寺院は開放式にしなければ、その臭いで堪えがたいであろう。
今回偶然ミタウリーのヨーギニー寺院の回廊の一部が壊れ、断面を観察する機会を得たので、ここで寺院の建築学的構造と特に排水施設の構造を中心に考えた。ただし、これから述べることは表面的な観察によるもので、排水穴の位置、屋根の傾き、内陣の様子などを合理的に考えたもので、表面的に観察できない排水溝の深さなどは不明である。(図6-7)
このプラウリー寺院は、シヴァ寺院らしいが、構造はカジュラーホのヨーギニー寺院に似ている。(図6-1)
寺院の入り口から見て正面の回廊部は完全に壊れているが、残骸の石材が残っているから、ここに回廊があったことは確認できる。ただ、かなりの部分が破壊を受け未整理のままだから、寺院構造が明確ではない。もう少し厳密に言えば、この寺院は上下2層の回廊と中央神殿を持つ寺院であり、構造的にヨーギニー寺院に似ている。
明らかに門扉や鉄柵は後世のものである。
というのも、後世の修理はある程度見当がつくからである。
第一に、修復した部分はやっつけ仕事で、壁面の模様の流れがデタラメになっていることが多い。もっとわかりやすいのは、砂岩のブロックの積み上げににセメントを使用している点である。セメントを使うと、表面の美しい砂岩のベージュ色が薄黒くなる。この寺院が作られた時代には、ブロックを平面に積んでも崩れないだけの技能があったが、現在はその様な技能は残らず、セメントに頼らなければならない。
この観点からこの寺院を見直すと、創建当時のままの部分は4割、修復したもの3割、3割が未修理といったところか。
回廊部を2階にしたため、構造的に無理があるのだろう、ほとんど壊れたが後世回廊部の外側に補強壁を付けたので、寺院構造が見えにくい。
元来、ヨーギニー寺院は構造的に内陣に降った雨水の排水能力が充分でなければ、それが原因となって崩壊する危険性を持っている。
図6-1 プラウリー寺院平面図
このプラウリー寺院は、カジュラーホのヨーギニー寺院と比較して異なる点は、中央神殿を囲む回廊部が2階建になって、より狭い面積で多数の神像を並べることができ、また中央神殿を入り口に寄せ、内陣のスペースを確保する工夫をしている。
この寺院はシヴァ寺院らしいが、他にどのような可能性があるだろうか。
回廊部の壁龕を僧房と見立てると、矩形の僧坊を配置した修行道場と見ることもできるが、回廊部の部屋は余りにも狭いので、この可能性は小さいであろう。
もう一点は、カジュラーホの矩形ヨーギニー寺院であれば中央神殿はなく、ヴァイラブ神は入り口の反対側の一番大きな壁龕に納めるはずだが、この寺院は明らかに柱構造の中央神殿がある。仮にこの寺院がヨーギニー寺院であれば、矩形のカジュラーホ形態でありながら中央神殿を持つという独特の形式である。
中央神殿の梁の上部には、帯状に神像チャームンダー、スールヤ、シヴァとパールヴァティー等とその崇拝者達が稠密に刻まれ、目立つ4本の柱の上部には男女のミトゥナ像があった。彫像の様式は、カジュラーホのそれに似てすらっとした調和のある体つきである。
この寺院を後にして車で20分南東に進むと、いよいよミタウリーのヨーギニー寺院を遥かな丘の上に望むことができた。
グワリオールの風景は独特で、ラリトプルやジャンシーの平野は緑が一面に茂るなか潅木が点在する優しさとは対照的に、峩々とした岩山を突きだし荒涼とした感である。ヨーギニー寺院は、この岩山の上に位置する。
寺院の下の村がミタウリーで、村といっても私の見た限りでは非常に小さく、もちろん市販の地図には載っていない。
村の中央から立派な砂岩の階段を築き、30メートルほど程登るとヨーギニー寺院があった。
岩山の上の平坦部は狭く、寺院より少し広い岩盤が露頭した広場だけである。 このミタウリーのヨーギニー寺院は、デヘージャ氏の本にも載っているが、写真で見た印象より小さい。
寺院は見事な造りで、しかも明るい砂岩の外壁はほとんど汚れていない。直径は約80メートル程、ほぼブヘラガートのものと同規模である。(図6-2)
図6-2 ミタウリー寺院遠景
寺院横の広場をはさんで、寺院より高い岩の上に祠が築かれてあった。
最初は儀礼中人を近づけない監視塔か、又は建設工事の指揮台とも思えたが、神を祭る祠である。日本的な感覚で考えると産土神の祠か。
運転手君の案内を待つのももどかしく寺院に入ると、中央神殿は完全に残っているが、回廊の壁龕にはヨーギニー像は1体もなく寂しい限りである。(図6-3)
ミタウリーのヨーギニー像の行方であるが、これが全く不明である。今まで述べた全てのヨーギニー寺院の神像の幾つかは残っていて、神像の様式、作風を感じ取ることができたが、ミタウリーのそれは1体も行方が分からない。ただ、デヘージャ氏の本には1体だけ写真が載っているが、それも「多分、ミタウリーのもの」と括弧付きである。
図6-3 中央神殿
寺院の外壁は、男女2体の立像と菱形の花弁のモチーフが並び、外壁の上から下にかけてのゆるやかな曲線は単純ではあるが調和して全体として見事な建造物である。 私が見た今までのヨーギニー寺院の中では最も美しい。
ここで、先の「花弁のモチーフ」について特に考えてみたい。
一般的に言えば、これは寺院を飾る花弁のモチーフであるが、私にはどうしても単なるモチーフとは思えない。
まず第1に、この「花弁のモチーフ」は記憶があって、ブヘラガートの中央神殿にもあったし、先の寺院にもある。このように3つのヨーギニー寺院に含まれること。もう1点は、ミタウリーの寺院ではこの文様を家形の飾りを付けて荘厳し、特別扱いをしている点である。その場所は、男女1対のミトゥナ像が並ぶ外壁の中央部である。従って私は、この文様を、男女1対のミトゥナ像に置き換え可能な「シンボル」として見るべきと考える。(図6-4)
図6-4 ミタウリー寺院の2つの絵の交換
結論を言えば、菱形の花弁は、その形状からしてヨーニ・リンガム(女性・男性性器)と考える。ブヘラガートの寺院を想いだしても、この寺院での扱いも中央神殿の側面の1枚板の中央に描かれており、別格扱いであった。
「花」自体は、植物からみれば雌しべ雄しべを含む生殖器である。
私達は、日頃あまりこのような観点で「花」を見ないのが普通ではあるが、この時代の人々はその様に考えたのではないか。
別の機会に、ガイドさんにこの点を聞いたが、私の推測は当たっていた。付け加えれば、正方形の壁の文様は「花」のシンボルで、長方形の花弁はリンガヨーニである。(図6-5)
図6-5 2つの花弁のモチーフ(プラウリー寺院)
後日、アグラ城を訪れたことがあった。
このときは政府公認ガイドさんが声をかけてきたので、案内をお願いすることにした。この人は、シャークタ派の人である。
アグラ城に入って、最初の城門を入った壁面に3つの白い星形が並んでいる。
ガイドさんが
『これは何だと思いますか』と問うので、
『シュリー・ヤントラではないですね』と苦し紛れに答えると、笑いながら
『これもヤントラの1種で、上むきの三角形がシヴァを表し、下向きの三角形がシャクティーを表し、全体でヨーニ・リンガムと同じ意味なんです』
と説明してくれた。
このガイドさんは、本当に良心的なガイドで、アグラ城の隅から隅まで2時間以上もかけて熱心に説明してくれた。特に、アグラ城を建てたアクバル大帝には思い入れがあって、それは歴史上の人物というより、父親を慕っているという感がであった。
私が中央神殿を見ていると、村人が2人ほど近づいて、中央神殿の木の扉を親切に開けてくれた。
中には大小2個のリンガムだけ残っていて、ヴァイラブ神はなかった。
私が訪れた2001年8月には寺院の回廊部の1部が崩れ断面を確認できたので、寺院構造研究の上からも貴重と考えたので写真を撮った。寺院そのものから考えると、早急に修理が急がれるが、偶然私は断面構造を見ることができたのは、大いなる幸運と言えよう。(図6-6)
図6-6 壊れた寺院の断面
ヨーギニー寺院の特徴は、前にも書いたように3つあって
(1)町から近からず遠からずという地理的孤立性
(2)丘の上にあって回廊が周囲を取り囲み、中が見えないという構造的秘密性
(3)寺院には屋根がなく、オープン・エアーである構造的開放性
図6-7 寺院(ミタウリー)立面図
1.回廊部の建築手順
最初に回廊部土台を砂岩のブロックで築く。ただしこのとき、あらかじめ排水のための溝を内陣から外壁に傾けて入れる必要がある。
土台が完全にできると、次に土台の中心線に沿って回廊の中心部Bの柱と壁龕の内壁を十字に組み合わせながら、この部分を土台に固定する。経験から、土台に埋める部分は1メートルはとっているはずである。
このB部が完全にできた段階で、Cの柱、Dの回廊部の外壁をほぼ同時に建てながら、それぞれに砂岩板の屋根を取りつける。次にEの外壁の上部を砂岩ブロックで築き、荷重を加えて全体を構造化する。
この時代セメントはなかったから、切石を積んだけでは構造化できず、上部の重い石の加重で構造体となる。ただしかなり一定の技術で積まなければ、特に角石などは抜けてしまう可能性があるが、ヨーギニー寺院のように円形であれば、この危険性は少ない。このとき、外壁上部Eはそれぞれが内側に傾くように砂岩の形状を考えて、漢字の「人」の字のようにお互いが内部に傾く力で固定する。
外壁上部ができると、砂岩板の上に砂利を積み、その重さで回廊の天井を固定する。
次に回廊部全体の防水のため、ピッチを内陣に傾けて10cmほどの厚さで張り、防水し屋根とする。これら天井の上にある砂利、ピッチ、外壁上部の重さで回廊は安定した構造体となる。
2.雨水、血等の排水構造
降った雨を3つの種類に分けて、回廊部に降った雨水、内陣部に降った雨水、場合によっては、儀礼による血も含めて中央神殿に降った雨水と考える。
回廊部に降った雨水は先に述べたようにピッチの勾配によって内陣に落ちる。勾配を反対にして外壁から落としてもよさそうだが、そうしないのは外壁を汚さない配慮と内陣を洗い流すためと考える。
内陣に降った雨水は、内陣自体が小さな勾配を持つから、外周部に集まり排水穴を通って外周部の下にある暗渠に集まり、回廊土台の排水溝を通って外部の下水施設へと流れ処理される。
中央神殿の屋根には、写真にも示されるようにピッチ層を流れて中央神殿に突き出た排水溝より内陣に流れる構造になっている。しかしこれは私見だが、もし排水溝に栓があれば、降った雨水は中央神殿の屋根にタンクとして溜め、血の儀礼後に栓を開ければ簡単に洗い流すことができると考える。
また、この排水機能と関連して、今回回廊一部が壊れるのを目にしたが、これは多分回廊土台部の排水溝が何らかの原因でつまり、廃水が長時間排水溝以外を通って流れるうちに、回廊土台を破壊し、最終的に回廊が崩壊に至ったのではないかと考える。
3.寺院建築用材としての砂岩
これはグワリオールの要塞を訪れたさいきずいたことが、要塞を作る石材は土台の岩盤と同じ赤砂岩であった。即ち要塞は土台を整地しながら建築石材を調達したのである。
ミタウリーのヨーギニー寺院も同様に、丘の上を平らに整地しながら石材を調達したのであろう。集められた石材の集積場所として現在広場になっている丘の半分を利用したと考える。この砂岩は堆積砂岩で層状をなし、比較的簡単に岩板やブロックが切り取れる特徴がある。それだからこそ、この丘がヨーギニー寺院の適地として選ばれたのである。