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第7章 ヨーギニー崇拝の終焉 / ラニプル・ジュハリアル

 今年度ラニプル・ジュハリアル行きを計画した目的は、ヨーギニー崇拝の現状を知ることであった。私の予想では、ヒラプルのようにブヴァネシュヴァルに近い村より、オリッサ州の最深部にあるラニプル・ジュハリアル村の方がヨーギニー崇拝が残っているのではないかと考えた。これは民俗学で言う周圏説の常識である。ところが実際は、私の予想は見事にくつがえされた。
 私の結論は、この寺院の現状から考えて、ここではヨーギニー儀礼は行われないし、したがってこの地域ではヨーギニー信仰は終焉したと考える。
 理由は、本来あった内陣の排水溝が内部には残っているが外部がリフォームされ、それは外部にまで達していないため、儀礼が行われたとしても汚水は処理できない。また、この寺院を取り巻く環境も、岩盤台地の近くに最近各地で流行っている子供用遊具の迷路があり、深夜の儀礼を秘密裏に行うことは難しい。また、神像に柵が設けてあったから、これでは儀礼において血を塗ることもできないであろう。私達が訪れたときにも、かなりの親子連れが車で乗り付け、どう見てもこれらの寺院群は観光施設という雰囲気である。最も決定的な理由は、この寺院には赤い三角旗がなく、したがって世間的にも寺院として公認されてない点である。

 とすれば、次の問題は、ヒラプルでは生き残ったヨーギニー崇拝が、なぜこの地では終焉したか。
 先に書いたように、州政府の「寺院群あり」という言葉に表わされるようにラニプル・ジュハリアルの寺院群を観光地として位置づけたのは州政府の方針である。しかし、想像が許されるならば、それ以前にヨーギニー信仰を支える信者がいなくなったという需要の減少が根本と考える。
 寺院とその信者の関係は、「卵と鶏どちらが先か」の関係ではない。それはむしろ信者がいて初めて寺院が成り立つという関係である。
 ヨーギニー儀礼といえども、それを信仰する人々がいて初めて成り立ち、信者がいなければ、たちまち寺院を維持管理することもできないであろう。ラニプル・ジュハリアルの最寄りの町はチツラガルであり、この町の住人が主に儀礼に参加したはずである。ところがこの町は先に述べたように、今日ではシヴァ教徒の町でありヨーギニー信仰の信者は少ないであろう。

 これに対して、ヒラプルの最寄りの町は、州都ブヴァネシュヴァルであり、人口も多く、寺院を維持管理するだけの富裕な住人も多いであろう。もちろん人口が多いだけでは十分ではない。カウラ派もしくは少なくとも女神を信仰するシャークタ派の住人が数多くいなければならない。
 現在ブヴァネシュヴァルで最も人気のある寺院はリンガラージャ寺院であり、これはもちろんシヴァ寺院である。しかしながら、ブヴァネシュヴァルにはヴァイタル・デウル寺院が残っている点は注目しなければならない。
 ヴァイタル・デウル寺院は、タントラ派の寺院で死体の上に供えられた女神カパリニを祠っている。ブヴァネシュヴァルにこの寺院が存在することは、少なくともタントラ教徒が数多くいる証拠であり、その何割かはヨーギニー崇拝をしたであろうことは容易に想像できる。
 寺院はプリーのジャガンナート寺院のように寺院資産を持たなければ、基本的に信者の寄付(ドネーション)で維持される。結局、信者がどれほどいるかが寺院の盛衰に関係している。寺院の基礎は、土台であるが、それ以上に民衆の篤い信仰である。

 早朝、列車の振動で目が覚めてしまった。
 時刻は5時半。車中泊は、振動のためか熟睡できない。朝食は車内食のミールを注文する。

 今年の旅行の目的は、今まで行けなかったオリッサ州のラニプル・ジュハリアルのヨーギニー寺院である。
 10年前に最初にヒラプルのヨーギニー寺院を訪問の際にも、同じオリッサにもう1つヨーギニー寺院があることは知っていた。この寺院は、寺院と神像の両方が残っているインドでも数少ない寺院であり、ヨーギニー研究では非常に重要な寺院である。しかしこのラニプル・ジュハリアル村は、州都ブヴァネシュヴァルからバスで西へ丸1日の距離にあり、見学日数を考えると最低3日かかる遠隔地にあり交通事情も悪い。

第7章冒頭イメージ

 しかし後日、空港のあるライプルから列車で東へ5時間ほどのところにチツラガルという町があり、ラニプル・ジュハリアルはそこから近いと分かったので、今年重い腰を上げることにした。
 ラニプル・ジュハリアルの意味は、ラニプル村とジュハリアル村の間にあるヨーギニー寺院のことである。この2つの寒村には宿泊できる施設はないが、チツラガルに宿を取り、タクシーで訪れようという計画である。

 列車は、グワリオールを1時間遅れの発車で、チツラガル到着の正確な時刻は分からなかった。車内で時刻表を借りてチツラガル到着時刻を調べてみたが、小さな駅で載っていなかった。その上、私達が乗っている座席の窓ガラスはオレンジ色に着色されて、車内から駅名が判読しにくい。
 女房は、チツラガルは辺鄙な小さな町であり、「ホテル」と言えるものがないかもしれず、そのことを非常に心配していた。私は、ホテルがなければ駅舎の簡易宿泊所でも泊まれば良いと思ったが、言われてみれば確かにそういうものではない。
 隣のコンパーメントに座っていたシーク教徒の退役軍人と話をしていると、車外を眺めていた彼の娘さんが突然

 『チツラガルに着いてますよ』と叫んだ。
 私達は非常に驚いた。
 というのも、1時間遅れの出発だからまだ時間があると思っていたが、しかしなんとか無事に降りることができた。乗り過しせずに済んだのは、シーク教徒の娘さんのお陰であった。
 汽車を降りる寸前、退役軍人さんがチツラガルで乗車した人から適当なホテルを聞いて教えておいてくれたので、なお有り難かった。
 今回のインド旅行は、現地の人に少なからず世話になる機会が何度かあった。
 ちょっとした話がきっかけであり、少しずつ事情を話していくうちに結果的に助けていただくという次第であった。
 旅行中は常に心の窓を開けて、現地の人と接触することを心がけたが、やはりこのことは正しい。乗り越しせずにすんだのもそうだし、その後の大失敗、チツラガルからライプルまで帰る際、列車を乗り誤まった件もそうである。この間の事情は滅多にないことで、書き留めておくことにしよう。

 当初の予定は、以下のように汽車と飛行機を乗り継いでその日のうちにオーランガバードまでの旅であり、かなり過密な予定であるが、すべて予約済みであった。

 チツラガルの旅館を深夜午前1時に立ち、1時50分のコルバ急行に乗る予定であった。列車は1時50分に到着したので、脳裏に「今日は随分と正確に来たな」という思いがあった。
 乗車後、私達の座席を探すが様子がおかしい。車掌に問うと、何と私達はコルバ急行ではなく、その前の列車に乗っていることが分かった。
 悪いことに、この列車はチツラガルで別の路線に入り、目的地ライプルには行かない。したがって、私達は刻々と目的地のライプルからはずれてゆく。下手をすれば、再度ライプルに帰れたとしても、1日1便しかない予約済みの飛行機や列車が全部だめになるため、オーランガバードでの観光もふいになってしまう可能性があった。 女房は、オーランガバードからのアジャンタ・エローラ行を1番期待していた。

 とりあえず、車掌さんに相談したが、「なぜ列車を確認しなかったのか」とたしなめられ「これからどうしますか」と聞かれる始末である。今までの幾度のインド旅行でも、このような経験は全くなく、ほとんど途方に暮れる状態であった。
 女房と話し合い、最初の駅で下車しタクシーでチツラガルに引き返す方法も考えた。車掌の話では、次の駅バドマルは小さい駅で、この時間にタクシーを呼べないという。それでも、時間を置けばチツラガルから離れて不利になることを考え、次の駅バドマルで列車を降りる決断をした。
 列車から降りると、外は真っ暗で雨が降っており、時刻は午前2時半。最悪の状態である。
 とりあえず、駅長に事情を説明した。
 この人はカッターシャツを羽織ったラフな人で、最初は笑いながら聞いていたが、さっそく案を考えてくれた。単純な案であったが、結果的にはこれが正解であり、ライプルに1時間遅れて到着したが何とか予約した飛行機に乗ることができた。

 ただ両方の列車とも2等車の接続しかなく、私はともかく女房にとっては普通車の超混雑状態を想像すると、これからの旅にかなりの危惧を感じた。
 この駅長さんとは、列車を待つ間いろいろと話をした。
 話題は、インドの独立に尽くした政治家チャンドラ・ボースのこと、彼の墓が日本に残っているそうである。ビベーカーナンダや彼の師ラーマクリシュナなど、彼は話題の豊富な人であった。話をしている間、十分おきにかかるポイントの切り替えの連絡を助手に采配しながら私達の計画を考えてくれたのである。
 ふだん、旅行の間は観光客相手の人にしか接する機会がないが、このような失敗を通じて良き人達に接することができたのは、予想外の歓びであった。
 いよいよ列車が来て別れる際に、私は握手をして礼の言葉を述べたが、本当に有り難いことであり、ここで名を聞くこともなかった駅長に礼を申し上げたい。

 話を最初のグワリオールからチツラガルに着いたときに戻そう。
 列車を降りると、外は小雨混じりの生憎の天候である。

 宿泊所は聞いていたので、リクシャーに乗って宿泊するジャララム・ロッジに向かう。この旅館は、駅からほんの5分ほどであったが、チツラガルでは1番良い旅館のようである。というのも、後日別の人に当地に泊まっていたと言うと、「ジャララム・ロッジか」と聞かれたので、チツラガルでは名の通った旅館のようだ。
 チツラガルは、空港のあるライプルから汽車で5時間ほどの町であるが、既にオリッサ州に入っており、州都ブヴァネシュヴァルからバスで丸1日の小さな町のため、「ホテル」はない。ジャララム・ロッジはエアコン付きの部屋もあって、小さい旅館ながらまずまずの設備である。
 ただ、この旅館では主人と帳場の青年1人だけ英語が通じ、他の人は言っていることは理解できるが、話すことはできない。
 ジャララム・ロッジは、1階の半分が旅館の帳場になっており、常時3、4人の使用人が待機する。このあたりになると、日本人は滅多に来ないのか皆好奇の目で見ているのがわかる。帳場の隣は、主人の両親が経営する食堂であった。
 遅い昼食をとるが、女房はパンと紅茶を注文した。食パンは置いてないので、わざわざ近く店に買いに行ってくれたのには恐縮した。しかしその店にも食パンはなかったようで、菓子パンを買って来てくれた。私は、野菜のパコラとかオムレツなど香辛料の入っていない料理を注文したが、どれもできないとのこと。結局、ミールを出してもらった。
 ミールは一般の定食のことだが、食堂の隅に大鍋が幾つか置いてあって、そこから作りつけの料理を小皿に盛って出すのだが、オクラカレーとかジャガイモカレーそれにダール(豆のスープ)等で、それにチャパティーが付く。
 ライプルに比べると、この辺りは随分と片田舎である。
 夕暮れになりあたりが薄暗くなると蝙蝠が飛び交い、通りの電柱に小さな明かりがともり、私達の少年時代の光景で懐かしい感じがする。
 ジャララム・ロッジの食堂は、この時間になると小さな社交場となる。土地の若者のグループの談笑があり、家族連れの父親が主人と数語言葉を交わし、近所の人々が集まりまた散ってゆく。

 食堂の壁には、私には懐かしいコナーラクのスールヤ寺院やプリーのジャガンナート寺院の写真が貼ってあるから、ここは明らかにオリッサ文化圏である。表通りに並ぶ看板も、ヒンディー語と絵文字のようなオリヤー語が併記されている。
 食事中に「チリンチリン」と微かな鈴の音がするのは、通りを流すリクシャーである。この辺りでは、リクシャーには小さな鈴をつけ、通行人の注意を引く。通りを眺めていると、オレンジ色の衣を着けた若いヒンドゥー教徒を何度も目にした。どうもシヴァ派の修道生のようである。
 夕食は、女房も余り食欲がないとのこと。昼間食べたミールは常時置いてあるのだが、それは食べたくないというので野菜パコラを説明し、調理してもらった。
 後で気がついたことだが、食堂の老奥さんがわざ私達のためにわざ作ってくれたのだ。私達は、ジャガイモと玉葱の熱々のパコラを2皿全部平らげることができた。
 食後、食堂の老主人がポテトチップと、スウィートと称して練り菓子を出してくれたが、これはピーナッツを砕いて粉状にし練ったもので、有り難くいただいた。

 昨日は車内泊で余り寝られなかったので、この日は遅くまで寝る。
 9時に食堂に降りて、朝食。女房は、余り食欲がないのか紅茶だけだが、私はミールをとった。

 10時に宿に頼んでいたタクシーで、ヨーギニー寺院のあるラニプル・ジュハリアルに出発する。
 車窓から見るオリッサの8月の朝は、全てが緑の世界である。
 この日は朝から小雨が降って旅歩きには不向きな天候だが、風景全体が水蒸気に煙って緑のベールをかけたようである。地面は夏草に被われ、雨に濡れた木々の葉は緑を増し、黒い幹の間を車はひた走る。所々には岩塊が緑のカーペットを突き破るように立ち上がり、その上を羊飼いとその羊が白く点綴する。
 朝靄の中を1列に並んで進む子供や女達は、近くの川に水を汲みに行く娘達で、一様に頭上に甕をのせている。
 本街道を右折して地道に入ると、州政府の「寺院群あり」の大きな看板があった。
 かれこれ1時間のドライブの後、彼方の低い岩盤台地の上に円形のヨーギニー寺院を認めた。車で登りきると岩盤は直径1キロほどもある広大なもので、その頂上部にヨーギニー寺院がある。

 ヨーギニー寺院は、このひろい岩盤のほぼ頂上部に位置していることが、この寺院のポイントである。血の儀礼が終わったとき、内陣に洗浄の水を播けば排水溝を通して外へ流れ、寺院外部に拡散するであろう。
 私達が訪れた8月は、寺院北側に広い自然の貯水池があった。寺院の碑文によれば、この池は巡礼にとっては非常に重要な場所であり、この水で身体を清めれば全ての罪を消し去ることができると伝えている。
 岩盤を降りた所にはシヴァ寺院があるが、昨日見たオレンジ色の衣を着けたシヴァ派の修道士育成の修道所であり、近隣から多くの若い修道生を受け入れている。私達が寺院を見学している間も、幾つものグループが回行巡礼をしながら絶えず神を称えるかけ声を叫んでいた。また遥か彼方にはブラフマンを祠った南インド型寺院もあるようで、まさに寺院群である。
 近くには観光客のジープや、幾人かの子供連れの観光客も見え、確かにここはチトラガルの「観光名所」の観である。

 寺院の配置は図のようになっている。(図7-1)
 ヨーギニー寺院に着いた最初から、寺院横にある3つの祠堂が気になっていたので祠堂から見ることにする。ミタウリーのヨーギニー寺院の横にあった塔は見張り塔であったが、この寺院の祠堂は元は神像を祠ったのであろうが、私が見たときは像は無かった。ヨーギニー寺院に最も近い祠堂の横に、高さ50センチ位の直方体の台があったが、これもヒラプルの寺院に同じで、かつての排水設備の名残か。
 寺院の直径はヒラプルの約2倍で、15mほどでである。中央に小神殿があり、シヴァ神を祠っている。周囲はミタウリーのように回廊ではなく、ヒラプルと同様に壁龕にヨーギニー像を祠っている。
 寺院に入ると最初に目につくのは、中央小神殿に祠られた踊るシヴァ神像で、参拝者を踊りに誘うように立っている。このシヴァ神は3面で8本の武器を持ち、息子のガネーシャ神と雄牛のナンディーを伴っている。

 周囲の壁龕に並んだヨーギニー像は、ヒラプルの約2倍の高さで、インド古典舞踏の基本姿勢(カラナ)で腰を落とし、両ひざを少し開いた姿勢で静かに静止している。

図7-1 ヨーギニー寺院配置図

図7-1 ヨーギニー寺院配置図

 祭の夜には、真夜中にヨーギニー崇拝者達は人知れず集まって来たであろう。

 彼等が寺院の戸口から入ると、チラチラとギー(粗製バター)の小さな炎のゆらめきに、シヴァ神は既に手足をくねらせながら踊りを始めている。周囲の64体のヨーギニー女神達は全員それを合図として、今まさに自分達の踊りを始めようとしている。

 ラニプル・ジュハリアルのヨーギニー寺院は、神像の美しさからいえばブヘラガートのそれに劣るが、それでも全インドで寺院と神像が揃っているのはヒラプルのそれと合わせて3つだけであるから非常に貴重である。
 ただ残念なことに私が訪れた2003年の8月では、神像を保護するために鉄柵がつけられ、写真も鉄柵越しに撮らねばならないのにはがっかりした。(図7-2)
 実際、入り口付近の神像やその他の神像も歯が抜けたように欠けていたから、近年盗難防止のために柵が付けられたのである。

図7-2 鉄柵越しのヨーギニー

図7-2 鉄柵越しのヨーギニー

 ヨーギニー女神像の一般的な特徴は、ヒラプルのそれと同様に神像背面の頭光がないこと、神像に伴神を伴わないことである。ヨーギニー寺院が盛んに作られた頃には、神像を荘厳するものとして乗り物(ヴァーハナ)、頭光、伴神を伴うが、ラニプル・ジュハリアルの神像はこれがないから、制作が比較的に初期であるということが想像される。デヘージャー氏は、これらの様式からこの寺院の建設は10世紀と推定している。
 ヒラプルの神像との違いは、乗り物がなく、神名の確定も持物に限られる点である。もう1点は動物頭の神像が多い点であるが、この理由についてはデヘージャー氏は何も述べていない。
 この中でも目につくのが、第1番目の猫頭のヨーギニー像である。(図7-3)

 この女神は両手に棍棒と剣を持ち、他方の手で髑髏盃(カパーラ)と肉切れを貪り食うという野性的な形態をとる。
 第21番目は、豹頭のヨーギニー女神である。(図7-4)
 この神像は口を大きく開き、左手には人間の肢体の脚の部分を持っているが、このことは以前に述べた死体儀礼(サヴァ・サダーナ)を暗示している。
 第23のヨーギニー女神は、頭の上に蛇を王冠のように巻きつけた猪頭のヨーギニーである。2本の手には数珠と棍棒を持ち、他方他の2本の腕はこれから踊りを始めようと身体の前で上下に重ねている。(図7-5)

図7-3 猫頭ヨーギニー

図7-3 猫頭ヨーギニー

図7-5 猪頭ヨーギニー

図7-5 猪頭ヨーギニー

図7-4 豹頭ヨーギニー

図7-4 豹頭ヨーギニー

 第28のヨーギニーは、蛇頭のヨーギニーである。(図7-6)
 この蛇は猛毒を持つため神のように恐れられる眼鏡蛇(コブラ)で、頭部は板状に広がっている。このヨーギニーも信者を威嚇するように口を開いて、右手に三叉戟を持っている。
 第44のヨーギニー女神は、馬頭のヨーギニーである。
 右手には三叉戟を持っているが、他の両手にはカーリー女神のように切断された人間の首を両手にぶら下げている。
 神像の美しさは、ヒラプルやブヘラガートのものに比べるとはるかに稚拙で、その表情も一様である。これは使用石材が外壁の砂岩と同様、肌理のあらい質の悪い砂岩を用いたため、風化作用の跡が著しいが、造られた当時から粗削りであったと想像できる。
 したがって、この寺院の施主は、余り地位や経済的に豊ではなかった藩主階層であろう。神像を作った技術者も技能的に優秀な技能の人ではない。何よりも工人としての工夫の跡、それぞれの神像に個性もなく、それは風化しようと破壊されようと全体として感じることができるのだ。ただ施主の依頼に応じて作ったという感じである。

図7-6 蛇頭ヨーギニー

図7-6 蛇頭ヨーギニー

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