第4章 カトマンドゥ / 血と供犠のシンボリズム
第1節 ダッキン・カーリー寺院
カーリー女神の祭の朝は、早く目覚めた。
ホテルの朝食はバッフェ形式に変わり、聞けばインドからの団体が来ているとのこと、何か心忙しい雰囲気がある。
8時にホテルづきの運転手クリシュナさんと待ち合わせたので、朝食も早々にダッキンカーリー寺院に向かう。
ダッキンカーリー寺院は5年前に一度来ていたので、今回は2回目の来訪である。 ダッキンカーリーという名は、正確には「ダクシナ・カーリー」で、「南のカーリー女神」を意味する。
ヒンドゥー教の方位観では、太陽が昇る東が中心であり、神々に祈り瞑想するのはすべて東を向いて行う。南は、中心軸の東を向いて右手方向で、先祖や死者の住む方向とされ、死者の世界はある種の「魔界」である。したがって、「南のカーリー女神」は、「魔界を向くカーリー女神」の意である。
カトマンドゥの街を東西南北を含む8方向に8人の女神(8母神)を曼荼羅に配し、鬼門にあたる南を守るのがこのカーリー女神である。伝承では、初代国王が夢の中で女神のお告げを受け、作ったのがカトマンドゥの街である。聖なる山並みの盆地に、3つの河に挟まれ宝剣の形の土地に街を作れば、女神が保護しょうという内容であった。この意味では、カトマンドゥは「女神の街」である。
今回のネパール旅行の目的は、インドでは目にすることが難しい「血の儀礼」を体験することであった。インドではヨーギニー儀礼などの「血の儀礼」は、崇拝者以外には秘密であり、一般の者の目に触れない。ベンガル地方のコルカタ(旧カルカッタ)のカーリー寺院、アッサム州ゴーハティーのカーマキャ寺院では血の儀礼を随時行うが、カーマキャ寺院に入れるのはヒンドゥー教徒のみである。
この年(2003年)はインド・パキスタンとの間にカシュミールの国境問題が再燃し、インド国内も騒然としていたので、私は旅先としてカトマンドゥを選んだ。
冬には市街からも霊峰ヒマラヤの山々を望むカトマンドゥは、天空の街とも呼ばれるが、この日は雲が低く降りていた。
寺院まで車で2時間の行程だが、祭の日というので、寺院に近づくにつれて街道には参拝の村人達が増えてくる。駐車場でも係は大忙しで、大型バスも何台か見かけた。駐車場から寺院までの参道は、人の列が絶え間なく続き、露店も溢れさながらバザールの観である。
夏とはいえ盆地の山間部は、相当な高度のため冷涼であり、新鮮な野菜や果物が豊富である。近郊の野菜、長胡瓜やオクラ、小粒の丸ナスに薄紫のカリフラワー、日本でも近年香菜と呼ぶコリアンダー、小振りのリンゴや梨等の果物を筵の上に山と積む。その隣にはオレンジ色のマリーゴールドの花輪や、ココナツの実を乗せた参拝セットを扱う花売りの露店が並ぶ。珍しいのは、カボチャの新芽のようなヤサイカラスウリの蔓を束にして売っていた。クリシュナ君に聞けば、カレー料理に入れるとのこと。この赤い実はビンバといい、仏陀の唇にたとえられる。
彼は、乾燥ローレル(月桂樹)の束を買った。
寺院は幅5メートルほどの渓流のそばにあって、道路から降りてゆくと供犠にした山羊等の動物を解体する小屋があり、何人かの業者が内臓を洗っていた。
ダッキンカーリー寺院はヨーギニー寺院と同様、吹きさらしの屋根なし構造で、私達は寺院を見下ろす高台の上に登った。
参拝者は入り口の前に整然と並び、その列は坂道の上のほうまで延々と続き、カーリー女神の人気のほどがうかがえる。
主尊のカーリー女神の辺りは、参拝者の人波で頭しか見えず、儀礼の様子はほとんど分からない。
儀礼の様子を詳細に観察するため下に降りた。
図4-1のように、この寺院は谷川そばの長方形の敷地にあって、右手の門が入り口である。真っ直ぐに進むとカーリー女神を祠る主神殿に着く。平常は静閑な緑に包まれた神殿であるが、祭の日には黒山の人だかりで、特に主神殿辺りの混雑は激しく、供物をあげる人、鐘を鳴らす人、祈る人でごった返している。主神殿の右には小屋懸けの棟があって、寺院関係者の詰め所であり、信者達も神妙に見守っている。(図4-1)
参拝者達は主神殿でカーリー女神を参拝した後、左側にある7母神(サプタ・マートリカー)を刻んだ浮き彫りの前で供犠のための鶏を差し出す。
屠殺人のナイフは、振り上げる間もなく首を切断し、血を神像に振りかけて供犠は終わる。
図4-1 ダッキンカーリー寺院平面図
儀礼そのものはあっけないほど簡単であるが、全体の雰囲気は圧倒的である。(図4-2)
女神達に奉献された原色の香華、白大理石の床は血しぶきが飛び散り、白檀の香りと鐘の音、周囲の喧騒と色の洪水に頭の中は茫然となってくる。
7母神とは、ヒンドゥー教の主な神々の配偶神で、奥からブラフマニー、ルドラニー、カウマリー、ヴァイシュナビー、ヴァラーヒー、インドラーニーおよびチャムンダーと並ぶ。血塗られた神像は、満足げに微笑を浮かべる。
これらの7母神の女神は、ときとしてヨーギニー類に入れることもある。
7母神の神像は、磨いた白大理石の壁に埋めこまれ、血に汚れてもシミなどが残らない固い石材である。神像の前には10センチ程の溝があって、儀礼後、水を流せば容易に血を流せる構造になっている。参拝が終わると信者達は中央出口から退出するのだが、皆心残りがあるのかすぐに出ないので、警官が出口で整理をしている。
図4-2 血の儀礼の様子
出口の右手の石組みの壁の上にオレンジ色の服を着た4、5人のサドゥー(行者)達が座って並び、女神崇拝者達に祝福のティカを額につける。オレンジの衣をつけるから、シャクティー派の行者である。
クリシュナ君は、特に女神を祈る気持ちがないのか、参拝しなかった。
私は、彼はシャクティー派ではないことは分かっていた。
5年前の訪問では、信者の人に一緒の参拝を勧められたが、バスで同乗の人は反対に『見るだけにしなさいね』とたしなめれたことを思いだした。このことからシャクティー派の人々は、「正統派」の人達からは少し「別の存在」と見ているのではないかと思った。
想像していたほど血の臭いが気にならないのは、寺院が吹き抜けであること、もう1点は寺院前に多数の灯明が並び、香料を絶やさないためである。以前来たときは、しばらく見ているうちに吐き気を覚えたのだが、今回は2回目のためか気分が悪くなることはなかった。
さて、私のこれからの問題は、女神の儀礼ではなぜ「血の儀礼」を行うかを考えてみる。むろん、ヨーギニー女神の儀礼も「血の儀礼」を行うから、私にとっては最も基本的な問いである。
今回のネパール旅行でも、幾つかの血の儀礼に関する疑問点があった。女神の儀礼では、なぜ動物を殺してその血をかけなければならないか。ヴァジュラ・ヨーギニー女神の絵は、なぜ髑髏盃で血を飲むのか。
「血の儀礼」は、血を嫌う正統ヒンドゥーの行為に明らかに反する。他方、動物の生産-消費の経済の観点からも中世社会が「牛による循環社会」という潮流の中で、儀礼とはいいながら血の儀礼による動物の消費の流れがインド世界を流れていたのは、これも不思議である。したがって、取り合えず宗教史の流れの中で動物の消費、血の儀礼を含めて考えてみよう。
アーリア人がヒンドゥクシュ山脈を越えてインド西北部に進入したBC16世紀の頃は、彼らは遊牧民であったから、当然肉食をしていた。彼らはヒンドスタン平原を南下し、原住するドラビダ人達を排除しながらヤムナー・ガンジス川流域に定住し、農耕生活を始めた。
古代のアーリア人は、「原住民」と混住しながらも、ヴェーダの教えとして自らをカーストの上位階級として位置づけ、その差別化の「証し」として肉食を放棄した。
後世、マウルヤ王朝からグプタ王朝の時代まで、宗教史ではヴェーダからプラーナの時代にかけ、各地にはバラモン教の埒外に土着の「原住民族」が住んでいた。マハーバーラタには、ドゥルガー女神を信じるサヴァラス族、バルバラ族、プーリダ族の名が見えるが、彼等はもちろん肉食をした。
ヒンドゥー教が全インドの統一した宗教として確立したAC1世紀頃においても「低カースト」や「カースト埒外」の人々は職能的に肉食をする人々が多かった。彼等の信仰は基本的には「女神信仰」であったが、これらの神格はまだヒンドゥー教の1つの信仰として認められなかった。
「女神信仰」が初めてヒンドゥー教史に取り入れられるのは、8世紀頃のマールカンディーヤ・プラーナの一部である『デービー・マハートミャ』(女神の素晴らしさ)の出現に初まる。このデービー・マハートミャが画期的であったは、それまで村の女神(グラーマ・デーバター)でしかなかった女神達が、ヒンドゥー教諸神の配偶神として登場したことである。そしてそれ以上に、ヒンドゥー教三神シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーを凌駕する女神としてドゥルガー、カーリー女神の登場である。同時に女神の登場はそれまでのヒンドゥー教史を一変する世界観を含んでいた。
女神達がいかに劇的に登場したか、デービー・マハートミャに語ってもらおう。
「ナーラシンヒーは咆哮で天空を満たして、
ある大アスラたちを爪で引き裂き食らいながら戦った。
シヴァドゥーティーの、獰猛な哄笑でアスラたちが朦朧となり
地に倒れると、倒れたかれらを彼女は貪り食った。
このように、怒れる母神群がさまざまな手段で大アスラたちを
粉砕していくのを見て、神の敵の兵士たちは総崩れとなった。
魔神たちが母神群に苦しめられ、ひたすら逃げ散っていくのを見て、
怒った大アスラ、ラクタビージャが戦闘に臨んだ。
彼の身体から1滴の血が大地に落ちるや、
彼と同じ大きさのアスラが地から湧き出てくる。」
ここで注目すべきは、カーリー女神は、ラクタビージャなどのアスラ達を殲滅するために血を飲む女神として登場する。もう1点はラクタビージャの血の1滴1滴が地上に落ちるや否やそれが悪鬼(デーモン)となって出現することである。したがって血は「生命を産む物質」として認識されている。より正確に言えば、血と大地の「接触」が悪鬼を産むのである。これが「血」の最も根本的な本質である。
この血の本質と、血の儀礼とはどのように関るのであろうか。
私が以前にダッキンカーリー寺院を訪れた際、バスで一緒になった人に
『供犠として、なぜ血を女神にかけるのですか』と尋ねると
『血を、女神は好むのです』
と言う答えであった。
しかし、この問いも「それでは、女神はなぜ血を好むのですか」と問えば、もっともそうはしなかったが、答えはないと考える。
したがって、好む-好まないと言う感覚レベルでの問いではそれ以上は論を進めようもなく、ここでも別のシンボリズムによる解釈の道が必要である。
血の儀礼は、インドでは「天空の太陽を東から西へと動かし、地上では牛の生殖力や農地の生産力を産み、それは女神を喜ばすもの」とした。
メキシコのアステカ帝国でも、スペイン人エルナン・コルテスの記録によれば、太陽の日々の運行を維持するため、太陽神殿の祭壇の石の上で、日常儀礼として人身供犠を行った。
言わば「血」は、神界も人間界をも含めた「世界の原動力」と考えた。
しかし、なぜ「血」は世界の原動力と言う特別な地位を得たのか。
古代の武人が戦場において傷つき、失血のために命を落とすことは、その家族にとっては悲痛な現実であった。血が人間の体内を循環することによって命を支えることは、想像力を働かさなくても容易に理解できた。
ここで考えるのは、サーンキヤ哲学における人間の「身体」と「宇宙の構造」の相似性である。とすれば、人間の身体を支える「血」が、身体だけでなく「宇宙」をも同様に支えることになる。ここにインド独特の論理、それが適切かどうかは別にして、「一般化」が行われた。そしてこの一般化の論理は、以下のように展開する。
血が支えたのは、宇宙だけではなかった。
ベンガル地方では夫や息子らが病気になれば、妻や母親はその回復を願ってカーリー女神に血を奉げた。針で、指や舌や乳房から採血し女神に願ったのである。
カーパーリカ派の行者達は、人間の血はそのアートマンを活気づけ、超能力をを発揮できると信じた。このように血は、生命、健康、生殖力、超能力など人間の諸活動を支え、この論理は神々にも敷衍され、人間のみならず神々をも支え喜ばすものとなった。